不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

臘八三日目

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それにしても「禅」という漢字はなかなか示唆に富んでいると思うことがあります。

「禅」は「示偏(しめすへん)」と「単(たん)」から成っています。

「単」は「ひとつ」、英語で言えばsingleを意味します。

示偏「礻」は自分の考えや物を人に見せることを意味するそうです。古代には生け贄や供物を供える台座を意味したようですが、神に自分の想いを示すところから来たのでしょうか。

つまり禅は唯一絶対のものを見せると言うことになります。そしてその唯一絶対のものは果たして何なのかと言うことになります。字面や言葉では言い表せない何か、不立文字の何かです。

臘八示衆3日目の章にはなかなか興味深いことが書かれています。私も好きな文句の一つです。

坐禅は一切諸道に通ず。若し神道を以って之を云えば則ち身は即ち天地の小なるものなり。天地は則ち身の大なるものなり。」

禅はあらゆるものに通じると言うことです。修行していると分かってきますが、確かに禅は全てのものに通じるものがあります。ここでは神道を例に述べていますが、神道を例えるならば「身は即ち天地の小なるものなり。天地は則ち身の大なるもの」ということです。「天地」と「我」という相対的な関係があるのではなく、「天地」は「我」を引き延ばして大きくしたもの、「我」は「天地」の縮図としたものということ。これは欧米のものの考えとは全く異にしています。外に求めるべきでなく、さりとて内にあるでもなく、我が身そのものが大宇宙の表れの一つという点が興味深い。そして問題なのが「私たちはそれを認識していない」こと。私の師匠によると「私たちはもう悟り切った後にいる」のだそうです。それに「気付いていない」。自我とがジャマをしてそれに気付いていないという事でしょう。

大宇宙の有り様が私たちそのもの、私たちの有り様が大宇宙そのもの、そう考えると日頃悩み苦しんでいる内容がいかに卑小なことか思い知らされてしまいます。偉そうなことを書いていますが私も家庭のこと会社のこと自分のことで毎日あくせくしています。大宇宙のように大きく構えれば或いは、天地宇宙万物の真理に触れることができるのかも知れません。

平成二十八年師走三日

不動庵 碧洲齋