不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

臘八二日目

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臘八坐禅会では毎年、臘八示衆なる書物を老師によって提唱されます。

かいつまんで言えば坐禅に関する心構えを在家用に述べたものと言えます。

臘八大摂心の日にちと同じく7章で構成されていて、毎日1章ずつ読んでいきます。

これがなかなか面白く興味が尽きませんが、例えば本日の章には道を極めるに当って、心の中には護法神(協力者)と魔障神(妨害者)がいると記されています。いわゆる善と悪です。良いと知りつつ成さなかったり、悪いと知りつつついついやってしまったり。

禅が言いたいのは「本来ひとつであるものが二つに見えてしまう原因」を探ること。一つしかないものが二つに見えてしまうことが苦しみの始まりであることを述べています。

キムタクがSMAPを維持するために奔走していました。その行いは一つしかないはずですが、多くの人にはそれが「よいこと」「悪いこと」の二つに分かれて見えています。

ベッキーが不倫をしてしまいました。本来は二人の問題のはずですが、どちらが悪い、誰が損した、許す、許さない、と、たくさんの枝葉が生えてきます。

他人でなくても構いません、自分はカッコ良いのか格好悪いのか、裕福なのか貧しいのか、モテるのかモテないのか、仕事ができるのかできないのか、そんなところで悩み苦しんでしまいますが、概して護法神と魔障神はそういう心の揺れの間に現れるものです。どちらかに振れるためではありません。

本来ひとつなれば振れる必要もなく。

禅はその「ひとつ」を知るための修行と言えます。

その「ひとつ」には「私・あなた」「我彼」といった全ての相対的視点を排除した絶対的対象を指します。そのためには1人ひとりが固く握っている、自分だけの基準を手放す勇気が試されるかも知れません。

私の師匠曰く「自分がいる」という妄想は、せいぜい脳の糟汁程度のものだと

言っていました。自分がいるという妄想で世の中が本来からあらぬ方向にぶれて、戦争や犯罪といった形で現れているということでした。

確かに歴史上、人に尽し賞賛された人は己を虚しゅうして、自らを勘定に加えず行動していたと思います。

本当の「ひとつ」、森羅万象におけるたった「ひとつ」、これを得るために本日も坐って参りたいと思います。

平成二八年師走二日

不動庵 碧洲齋