体に聞く
今回断食をして感じたことがあります。
それは食べる欲求には2種類あると言うこと。
ひとつは「体が欲しているから」。
もうひとつは「食べたいから」。
恐らく20代ぐらいまで、もしくは人によっては30代半ばぐらいまでは上記二つはほぼイコールの関係だったかも知れませんが、30代も半ばを過ぎればこれはイコールではなくなります。言うまでもなく「体が欲している」総量は「食べたいから」よりも少なくなるはず。
現代人は「昔の人」よりも総じて体を使っていません。「昔の人」というのは漠然としていますが、個人的には直近では例えば終戦後しばらくぐらいまでではないかと思っています。
そのぐらいの時代の人たちは生存するために食糧を摂取し、生存とは関係がない、単に味覚を楽しませるための食糧はごくごく僅かだったと想像します。
現代日本では生存を脅かす程の食糧の不足は基本ありません。あるのは美味いか不味いか、生存とは関係ない分野の食物を摂取するに当っての味覚がどうか、だけです。
つまり現代日本人のほとんどは普通に食事をしてさえいれば少なくとも体の生存が脅かされることはほとんどないということ。・・・よほど偏食でもしない限りは・・・。脳の味蕾の欲求の求めるままでも十分生存できる。
私たちは「体の声」を聞かずとも今を生きることが出来ているという事実。
実際多分、体の奥底から体が求めている切実な声に耳を傾ける人は少ない気がする。
そういう所から健康が少しずつ損なわれてきている。
断食をするという事は、その「体の声」を聞こえやすくするということ。
何を食べるべきか、どの位食べるべきか、いつ食べるべきか。
断食をするとそれがかなりクリアに聞こえてきます。
断食後にショックだったことはいかに私たちが日頃「肉体の生存にほぼ関係のない、味覚を満足させるためだけの食物を多く摂取しているか」ということを認識したとき。
これでは体は悲鳴を上げます。
「体に聞く」ことは禅でも同じ事が言えます。
これは私の師匠がよく言うことですが、坐禅も「自分の心」好みの坐禅をしようとするとなかなか難しい。
コンディションもタイミングも体に聞いた坐禅だとうまく行くとのこと。断食後にそれが分かりました。
呼吸や姿勢、脳裏に浮かぶ雑念さえも体に聞けば正しい答えが返ってきます。
自分の思うがままに坐禅をしてもうまく行きません。
うまく坐ろうとするなら、やはり「体に聞く」のが一番だそうです。
今日は断食後では一番多く食べてしまいました。確かにおいしかったのですが、その前に量が多く気持ち悪い。歳を経てきたらうまいものを少しだけ、というのは間違いなさそうです。
平成二十八年霜月十二日
不動庵 碧洲齋