誤解の無いように言っておきますが、自分以外の優れた人を師と仰げ、ではありません。
人としていささか問題がある、そういう人たちをも師と仰げという意味です。
優れた人は確率的にごくごく僅かです。
だからふつうにたくさんいる、一見平凡な人をも目を皿のようにして、長所を見出し学ぶ、多分この行為そのものも尊い行為なのだと思います。
そもそも広い世界で自分を基準に優劣を定めるべきでもなく。
愚かすぎて話にならない連中からも学びます。彼らが信じがたい程愚かなことを体を張って、人生を賭けて示してくれています。それはそれでやはり有難いこととして取り込める、こうありたいもの。もっとも私などは器が小さすぎるので、こういうケースが多いと消化不良を起こしてしまうと言う悲しい現実もあり(苦笑)。
よい人からだけ学ぶのは一見効果的ですが、そんな人は滅多にいないことを考えるとその前提プロセスに時間がかかります。なので「どんな人からも学べる」方が万能度が高いし観察力が養える。昨今は何でも効率主義が横行しているので社会全体で観察力は機械任せで人間本来の観察力が低下しているような気がします。社会で起きている事件はそれに端を発しているものが多いように思います。
自分以外皆が有難く尊い。自分でないもの全てを示してくれるという事実は、多種多様な価値観念の共存だけが真実であることを示しています。最近の科学では「全く同じ」ものはないそうですし、「大体似ている」というのは数値的と言うよりも観念的なものだそうです。
私は禅仏教を少し学んでいますが、「自分」という物差しを外すとよく分かるようになる気がします。自分という基準、自分という価値観を基本にして見ると、本当に世界は狭い。これではもったいないと思えるようになりました。ご飯は何でも出されたものを食べて感謝する、そんな感じです。我が家では世の中には「おいしい食べ物」と「ありがたい食べ物」しかないと教えています。我以外の師たちもそのような感じでしょうか。
ご迷惑な連中、ウンザリさせられるような方々も、自分自身の価値判断を外してみればやはり「有難い」・・・のかもしれません。最低でも反面教師としては。
平成二十七年長月十七日
不動庵 碧洲齋