不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

意志を試す

幕末のある日、山岡鉄舟が町人の友人と一緒に、成田山新勝寺に参拝する約束をしていましたが、あいにく当日は大変な嵐になってしまいました。

雨の中、町人の家にやってきた山岡に友人は「今日は酷い嵐だ、行くのはやめよう」と言い分かれました。

夕刻、また山岡がその友人宅を訪れました。そして彼は新勝寺の御守を手渡しました。

なお、江戸から新勝寺まで60キロ弱あります。

昨年から自動車を手放してからこの逸話をいつも心に刻んでいます。

江戸時代まで、人が行動できる範囲は自分の徒歩に因るものでした。

江戸東京博物館に行くと、とある役付武士の日記が展示してあり、1ヶ月間の行動が視覚的に分かるようになっていますが、何もないときでもざっくり10キロ以上は歩いていたようです。仕事があるときなどはその倍とか。

万歩計を時折使いますが、大体10000歩を目標にしても7キロ程度です。そう考えると昔の人の脚力たるや現代人の比ではありません。ましてや脚力のみならず、昔の人は日々の生活でも武芸に通じる所作をも日常的に学んでいました。

・・・故に道場で学ぶことは現代人よりもだいぶ少なかったはずです。

私たちは脚力のみならず、礼儀作法や所作などでもいちいち学ぶ必要があります。

つまり現代人たる我々が、伝書通りのことをしているだけでは全く以て足りぬ事が多いと言う事になります。伝書以前の基礎の部分の錬成に私たちはもっと力を入れねばならないことが多いからです。

私は長年、そこに着目しています。

現在、私は移動は自転車か公共交通機関を使っていますが、車のときと違って持ち物を注意深く選定します。行く先々で必要になることを想定し、克つ重量を抑える必要があります。10キロ前後までなら自転車ですが、これがなかなか遠いと思うこともあり。

自分の意志を試されます。

雨が降ろうと槍が降ろうとそういう条件下でも断じて行えるかどうか。

車を持っていたときはそういう意志は試されません。風雨とは無縁の状態で、荷物の領を気にせず、労せずして大抵の距離を走破できます。それはそれで文明の利器は便利だと思いますし、時折車がまた欲しくなることもありますが、そこはぐっと押さえます。

70キロの体重を移動させるために最低でも700キロの質量を、燃料を使って移動させる。これはどんなに言訳しても環境に優しくありません。そういう意味もあって私は極力、自分の力で移動するよう心掛けています。

四季折々の感覚を五感で感じるという経験はなかなか趣深い。これを感じる時間は車のときにはあまりなかったものの、徒歩や自転車になってからは飛躍的に増えました。道端に咲くタンポポにも目がいきます。徒歩の速度は脳が目から入ってくる情報を十分に処理できる速度だそうです。時速30キロを越えると、脳は「見えているつもり」で処理する部分が多くなるとか。実際に脳科学の実験では時速30キロ辺りを越えると脳にかかるストレスが一層高くなるそうです。この辺り、武芸に強い関連があると感じます。

昨日も雨の中、3キロ近くを自転車で稽古に向かいましたが、さすがにもう3キロ程度ではおっくうにもならず。慣れというのは恐ろしいものです。

今でもせめて原付ぐらいは買おうか、とか軽自動車ぐらいなら、とか思うこともありますが、まだまだ甘いと思うことしばしば。逆に考えればどうしても必要な状況は概して少ないので、今しばらくは車のない生活から得られることを楽しみたいところです。

画像

平成二十七年長月九日

不動庵 碧洲齋