不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

祈りを込める生活

私が通勤に使っているルート上には小さな神社が1社、町寺が1寺あります。

寺は浄土宗で神社は天王社だそうです。

寺は少し奥まったところにあって、道路に面しているという感じではないのですが、小さな神社は交通の多い道路の角に建っています。

秋になると神社の背後と道路を挟んだ庚申塔隣の銀杏が大変美しく黄金色になります。

私が今の会社に入社した頃は多少荒れていたのですが、ある日工事がなされて、石垣もきれいになって、整備し直されていました。

今朝の話しです。

いつものように通勤して神社の前の横断歩道を渡しました。

丁度私の前にサラリーマンがいたのですが、渡り切ったら追い抜こうと思っていました。雨だったので傘を差していて上半身は見えませんでしたが、多分年の頃は私といくらも変わらない程度だったように感じました。

ところがそのサラリーマン、渡り切ってすぐにピタッと立ち止まり、危うくぶつかりそうになりました。本日は雨だったのでそのサラリーマンは傘、私もカッパという視界の悪い状況下です。何やってんだ、と内心罵りかけましたが、なんと彼は直立不動になってその神社に一礼をしました。

久々に清々しい衝撃が走りました。

雨天です、朝の出勤時の忙しいときです。

しかも車の往来がそこそこある辻です。

そんなところで私ぐらいの中年が堂々と神社に頭を下げています。

戦前とは言わず、戦後間もなく、子供たちは神社やお寺は言うまでもなく、道端の祠や道祖神庚申塔、地蔵にも一礼したり手を合わせたりしていました。

子供たちに信仰があったかどうか分かりませんが、とにかく昔からそうすべきものだと言われてきました。

私も小学校に入学した頃まではそうしていた記憶があります。

幼稚園は仏教系で、通園時は園内に入る前に寺の前で手を合わせ、唱えることがきまりでした。

「わたくしたちは みほとけさまに まもられて いつも ただしく なかよくします なむじぞうだいぼさつ」

これを無心に唱えていた40年後、やはりこの偉大な真理に再び気付く始末です。

わざわざ1週間の中で休みを設けて、宗教施設に行って信仰を固めるのではありません。日本人は日々の暮らしの中に祈りがあり、信仰があります。多分それは特別なものではなく、割に普通にあるものとして、小さな感謝や敬意が積もり積もってきているものが日本の神道の原型ではないかと思います。

今少し日々の暮らしに先祖や自然に感謝や畏敬の念を込めて、心豊かな日常生活を心掛けてみたいと思いました。

神社の銀杏。いつもこの前を通って会社に行きます。左下に見えるのが天王社。

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平成二十七年長月十七日

不動庵 碧洲齋