不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

便利ということ

先週の日曜日は久しぶりに自転車で坐禅会に行きました。

先月は海外の同門の参加があったのでレンタカーを借りました。

家を出たのは4時半でしたが、熱帯夜の様相。

空には大変美しい月が映えていました。blue moonですね。

寺までゆっくり行って40分ほど。

川の畔を走っていると沈んだ月の代わりに真っ赤な朝日が昇ってきました。

これまた手を合わせるぐらい荘厳な色合いでした。

やはり日本人だけあって旭日とは一体感を感じます。

坐禅はいつもの通り。

何も変えずにいつも通りに粛々と行うことの難しさには得ることが多くあります。

そしてそれはとても難しい。

坐禅後の提唱は無門関の26番目のお話「二僧巻簾」というものです。

簡単にかいつまんで言うと、偉い法師様が2人の若いお坊さんに指で簾を巻くよう命令して、巻き上げたところ、どちらも全く同じ事をしたのに法師様は「1人は良かったが、もう1人はだめ」と言ったそうな。これは単なる話しではなく、「公案」と言われるいわゆる禅問答のことです。

この話しを聞いたら普通「なんでこっちが良くってあっちが悪いんだろう・・・」などと思っていますが、要は引っかけです。二元的な視点から離れよと言うことです。今世間でも「右」とか「左」とかで喧々囂々です。男か女かで労働基準が違うとか、これは善でこれは悪などなど、仏の真理はそんなスイッチ式の2元的なものの見方からは見えない、物事の表裏ではなく、物事そのものを観よ、とかそんなことだと思います。

提唱が終わり、茶礼では老師を交えて幾らか話をします。

その後は退散して、仲の良い仲間と近所のマックで朝食。この時間に開いている店はそこぐらいなものでやむなく。

マックの席で気になったことがありました。

通路を挟んだ向かいに小学校1年生になるかならないかという女の子とそのお父さんがいました。

しかし驚くべきことにお父さんは娘をほとんど完全無視してずっとスマホを操作しています。

女の子はつまらなさそうに食べ、時折スマホを見入っている父親を見つめていました。

お父さんはその視線に気付かなかったのか。

お父さんはその沈黙が気にならなかったのか。

私は息子と相対する時は文字通り真剣勝負でいます。

連れてきておきながら放置するなどと言うことは私にはちょっと信じがたい。

私も仕事柄パソコンをよく使いますし、家でもパソコンを開くことはままありますが、息子と語る時間は最優先です。パソコンやタブレット、携帯を見ながら話すと言うことは基本ありません。そういう場合でも必ず顔を上げてから話します。

便利なはずの機械が人間関係を破壊していく様はホラー映画のようで恐ろしい。

ITの便利さは人類が享受すべきものではありますが、それはあたかも砂糖の取り過ぎ、酒の飲みすぎのようなもので、自覚を持ってどこかでセーブしないと大変な事になります。実際、既にスマホを見入って歩いているうちにホームから落ちたとか、運転中にスマホを見て事故を起こしたとか数えきれません。

SF映画のように人類はもっとスマートにIT機器を使うことはできないものでしょうか。悩ましいところではあります。

人をより幸福にすべき道具で不幸になる人は多い。ただ例えば海外に出稼ぎに来ている人がスカイプで毎日、遠く離れた家族と話せるというのは間違いなく正しい使い方です。個人的にはどうでもいいことまで便利になって、感覚が麻痺しているような、そんなレベルの人間に注意してもらいたい。

私は今自動車は所有していないしスマホも持っていませんが、大きく困ることはありません。自動食器洗い機も壊れてから買い直してませんし、エアコンも壊れてから買うのが面倒で買ってません。それでもそれほど不便でもなく。必要で買うのか欲しいから買うのか、時間とお金の両天秤にかけて必要なものだけ買って多少の不便を忍ぶ、その方がより人間的ではないかと思う次第です。

平成二十七年葉月五日

不動庵 碧洲齋