不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

匠の技を単純に

単純な行為を直接の感覚を以て匠の技で行う。

これが一番シンプルな意味において「強い」

先週日曜日の稽古において、当流の宗家が口にした言葉です。

(正確な言い回しではないかも知れないという辺りはご容赦ください)

いくつかの言葉のうちで、これが一番印象に残りました。

優れた茶道や華道、舞踊の先生方の所作はまさにその通りです。

箸一つ、戸を開ける仕草一つ取っても完璧な動きを見せてくれます。

ものすごく単純な動きにさえ、持てる技量の全てを投じてそれを為す。

しかもしれを無意識に行う。これが私が考えている達人の動きです。

ミリ単位以下の動きがそこにはあります。周囲の調和を崩さない動きがあります。

動いていてそれを意識させない、動いていてもそれが記憶に残らないようにする。

私が信じている達人の動きはそんなことが出来るのではないかと思っています。

それは決して奇抜な動きや神速の動きではありません。

それを「どのように」体現化するのか、そこが私が人生を賭けて追い求めているところではありますが、ここ10年ほどでやっと、それに到る道しるべが分かってきたという案配です。

方便、方法論というのでしょうか、練習方法というかやり方が分かってきたという感じです。

例えば木の葉は風に揺れていますが、いつそれが始まっていつ終わったのか、なかなか分かりません。あくまでこれはたとえの一つですが、私的には武芸の達人的動きはこのような感じではないかと思っています。そしてそれに近い動きを見せる人を何人か知っています。

機械的な動きの反復、いびつな動き、視覚にハッキリ残る動きはそれだけで大変不利な状況を作り出してしまいます。そういう動きは多少の誤解を恐れずに言うと動く前に見えてしまいます。そういう動きは稽古ではありますが、それが実戦でどのように活かされるのか理解してこその反復稽古です。その意識がなければ単純に筋力トレーニングの域を出ません。

もちろんいきなりこんな動きをしても意味がないことは言うまでもありません。今話している動きをマスターする前に地道で基本的な動きをマスターしなければなりません。逆に言えば幼虫からさなぎ、さなぎから成虫になる時機を知ることが出来るような感覚がなければならないと言うこともできます。人でも自然に耳を傾ければ必ず、動物や虫のように時機を得ることが出来ます。

日々の生活の動きの隅々に意識を充実させ、かつ無意識でいられる、恐らく達人の精神世界はそれに近いものではないかと勝手に思っている次第です。

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平成二十七年文月十三日

不動庵 碧洲齋