不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

未来を切り拓く

そういえば一昨日、7/8は母方の祖父の命日でした。

今から71年前の1944年7月8日、サイパン島への最後の増援部隊第3530船団隷下となった徴用船「たまひめ丸」もしくは「鹿島山丸」に乗り組み、サイパン征途中に米軍潜水艦に撃沈されました。享年31歳。3人の子供がいて、長女、次女、そして生まれたばかりの長男でした。次女が私の母です。

祖父は現在は高崎市になっているところの豪農の次男か三男で、土地を借りていた貧農だった家の娘と駆け落ちして浅草に住むことになりました。下駄の鼻緒を作っていたと聞きます。

少し体が虚弱だったらしく、昭和19年初頭まで徴用されず、そのことで祖父はとても残念であったとのことでした。それは祖父が軍国主義だったからではなく、周囲の同年代が出征しているのに自分だけ行かないことに対してだったとか。

訓練は多分、半年にも満たないものだったと思います。

戦死の報を受けてから3ヶ月と経たないうちにB-29の東京空襲が始まりました。

夫を亡くし、3歳の小さな子供を抱えた祖母の苦労たるや、平和で豊かな時代に生まれ育った私には全く想像も付きません。

母などは米軍艦載機から面白半分に機銃掃射を受け、九死に一生を得たこともありました。

小さい子供はともかく、祖母は終戦時の玉音放送をどんな想いで聴いたのでしょうか。

戦後からしばらく、母の家族は大変貧しい暮らしを強いられました。

恐らく昭和30年ぐらいまではかなり貧しかったと想像します。

祖父は残された家族が無事に暮らしていけるかどうか、家族と会えなくなるという無念さを想ったと思います。アメリカが憎いとかそういうものではなかったように私は思います。勝手な想像ですが。

昭和48年頃、祖母がガンで他界する少し前、祖母は母に海外の人たちと話せるようにするため、英語を勉強したいと言いましたが、不思議なもので今や私の友人が住む国は世界40-50ヶ国にもなります。私が初めて海外に行ったのは20歳でしたが、息子は4歳になる前に奇遇にもサイパンに妻と行ったのを初め、今までロシアに2回、10日後にはオーストラリアに行きます。

息子の息子の時代は、宇宙に行くことが当たり前のようになるかもしれません。

広い世界を身を以て知る、多分日本人に結構欠けているのではないかとよく思います。国境を目で見たことがある人はとても少ないでしょうし、異文化の人間、異言語の人間、違う宗教の人と暮らしたことがある人も少ないでしょう。

昨今はなかなか若い人の経済状況が良くないようで、積極的に海外に行ける人は多くありませんが、一つ言えるのはネット上でいくら議論を尽したり、検索しても実際の世界の広さは伴わないと言うこと。ローカルなSNSやニュースのコメントを見ても、やはり日本人の多くが他の先進国に比してローカルだと思うことしばしば。世界に冠たる日本人としてそのままでは良くない。

私は結構な愛国者のつもりですが、偏向した狭隘な思想は持ち合わせていないつもりです。私は日々の行いの中に祖国愛を込めるようにしています。他国を口汚く罵倒したり、貶めるような所行には日本を本当に愛する行為は見られないと考えています。彼らは本当に広い世界を知らない。知らなさすぎる。これでは本当にそのうち負けてしまう。彼らは先人たちの遺産を食い潰しているだけで、自らは何ら寄与していない。「素晴らしい日本」であり続けるためには日本人が漏れなく日々の自分の為すべき事をキッチリとこなす。その上で神社に行くなり伝統芸能を精進するなり、自分でできる具体的な日本の継承をしていけばよく。

よりよい明るい未来は過去の暗さをも消し去ります。

過去は過去で理不尽だったり納得がいないことは多々ありますが、それはどの国でも同じ事。日本なんか少ない方です。

何のてらいもなく、過去を純粋に懐かしめるほどに、よりよき未来を切り拓いて子供たちに残してやりたいと思う所存です。

今年は息子と終戦記念日靖国神社に参拝に参ろうかと思っています。

三峯神社にて

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平成二十七年文月十日

不動庵 碧洲齋