不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

「ざんしん」のこと

「ざんしん」という単語があります。よく武道で使われる用語です。国語辞書によると主に「心」の方が記載されていますが、この業界では身の方を使う場合もあります。「大辞泉」によると、「一つの動作を終えた後でも緊張を維持する心構えを言う語。(以下略)」だそうです。

ここ5.6年の話しですが、この感覚が何となく肌で分かるようになってきました。

「ざんしん」は何も武芸だけの話しではなく、仕事にも生活にも何にでもあります。多分。

稽古で時折、息つく暇もなく若手と技を掛け合うことがあります。

理由は微妙な心機、時機、体捌きを忘れないためにすぐさま取りかかるのも理由ですが、もっぱら呼吸を乱さないために行います。他にも多くの理由はありますが。慣れてくると自分と呼吸が一体になり、息が上がりにくくなります。若手でもすぐに息が上がる人がいますが、特にその傾向がある人には「一息」を教えます。

そのため私は滅多にくたばりません。何でも一呼吸で行う。一息の流れで事を為すように心掛けると、ほとんど疲れなくなります。

「ざんしん」というのは稽古における、かりそめの区切り、便宜上の切り分けと私は考えています。日常地球は動いていますし、坐禅をしていても脳や血流は動いています。森羅万象万物は刻々と流転して、同じ姿を留めません。「静止している」などと言うことは基本的にはこの世にはあり得ません。

「ざんしん」はその中にあって、稽古の便宜を図るために喩えで言うなら丸いケーキを切り取った切断面のようなもの、本来接続して円いものの一部であることを知らねばならないと思っています。

「一つの動作を終えた後でも緊張を維持する心構えを言う語。」とありますが、緊張とかではなく、連続している流れの便宜的な切り分けで生じた事象であることを認識できるかどうかで、「ざんしん」が理解できるのではないかと考えます。

元来「始まった」「終わった」という認識は個々の脳内における働きに過ぎません。初心者なら道場に来て相手と組んで初めて「始まり」ますが、やや慣れてくると道場に入ったときから「始まって」います。達人ともなれば「始まり」も「終わり」もありません。それを例えば初心者などに分かりやすくするための便宜的な節目としても「ざんしん」があると考えています。

生活でもメリハリはありますが、私の場合などはなかなか大量の家事が待っています(苦笑)。毎日一つ一つ潰していきますが、on/offの感覚は捨てます。全てが連続体です。こういう事に絶望的になる人もいますが、そういう人は今ではなく遥か未来永劫まで見ているので絶望します。今その場で有り潰れていればそんな妄想もなく。「今」「その場」の「すべき事」をただこなせばよく、自分の期待で未来を俯瞰して区切りを付けて、思い通りにならずに不満を溜める。こういう人は「ざんしん」は理解できないかも知れません。

「ざんしん」の対語は何なんでしょう?「先心」?よく分かりません。

私はよく樹木を観察します。風が吹いて枝葉がざわめき、そしてまた静寂に戻ります。

「起こり」は見えません。同じく「終わり」も見えません。

ただ私たちは確かに枝葉が揺れるのを見て、見えない風が吹いていることを知ります。

そこには明確な始まりも終わりもありません。

自然が「ざんしん」をするとこんな具合なのかなといつも思っています。

夕陽を見るのも好きです。

色相環で言うと青と赤は完全に真逆の色ですが、自然はそれを継ぎ目なく連続させることができます。いつ見ても見事だと思います。自然には継ぎ目がない。

そういう観察の積み重ねをしていてあるとき何となく「ざんしん」の取っ掛かりというか、ヒントというか、そんなものが分かってきた気がしました。気のせいかも知れませんが。

稽古において仮想敵の制圧行動の終端という一点は確かにありますが、そもそも戦場で他の敵に「ざんしん」を悟られたら命が幾つあっても助かりません。なのでそういう意味では本来、「ざんしん」というプロセスの運用は色々考慮すべきものがあると考えています。そういう意味において森羅万象の悠久の流れの中に在る「ざんしん」を忘れずにありたいものです。

これは「かぎろい」という現象

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*これはあくまで私の浅学による随想に過ぎません。その道の方々に置かれましては一笑に付して頂ければ幸いです。

平成二十七年文月二十九日

不動庵 碧洲齋