不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

人として高貴たること

武芸に限らず、古今東西その道を極めようとする者がある一方、それを妬み貶める者もまたいます。

一芸に秀でると言うことの難しさは往々にして芸そのものよりも、周囲の人間関係に現れることは偉人伝などにもよくある話しではあります。

・・・とはいえ、問題があるのは9割ぐらいは本人以外であることが多く、そしてそれは人の持つ心の持ち方で起ることが多々あります。自分とその周囲しか見えない、自分の栄華や権勢だけを求める、自分自身の基準でものを観る、そんなところから自分に媚びたり阿ったりしない人を憎むようになるようです。

一芸だけに秀でている人は、お金をたくさん持っているだけの人に似ています。お金をどれだけたくさん持っていても貧しさをひけらかす人が多くいます。一芸に優れているだけの人も然り。そういう人は散見されます。誰とは言いませんが、個人的にIT業界の寵児でアイデアはたくさんあるし、お金もたくさん持っていても、近寄りたくないと思う人はいます。それは武道家然としている武道屋にもいます。

本物の達人というのは「一芸に秀でているだけの人」では全くありません。違います。その人の豊かな資源の、たった一つの見え方に過ぎないからです。その芸を通じてその人が見えてくる、そういうものが真の芸ではなかろうか、と私は思っています。少なくとも私が目指している芸はそのような指向性です。

私如きの稚拙な考えを掲げようと思い立ったわけではありません。

先日、師匠に家風や齢、門下にあるまじき卑怯な振舞を認めるに、かなり頭にきたことを師匠に義憤を唱えたところ、師匠は「そのような卑怯に卑怯で接すれば、同じ人間になってしまう。更なる精進を以てその志を示せば良い。」と述べたので改めて感銘を受けた次第。

小ものはどの時代にもまんべんなく棲息するもの、故にそれを嘆いても詮無きこと。やはり自身の修行を以て自分の時代を精進することが肝要かと思った次第です。

名を掲げ

雅び気高さ

恥を知り

曲がらぬ道を

もののふと云う

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平成二十七年文月二十一日

武神館 不動庵道場

不動庵 碧洲齋