不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

あるがままにて

実は1ヶ月近く前から左足裏に痛みがあります。丁度踵の前内側土踏まずが始まる辺り。普通に接骨院に行っているのですが、さっき何気なく調べてみてショック。なんとwikipediaにも載っているぐらい普通にある症例のようです。足底筋膜炎、というのが症状で、足の裏にくまなく広まっている筋膜の骨との接続部分に起る炎症のようです。多分、普通の歩き方だと結構痛いと思いますが、私の場合は中心軸歩行法で外旋足(ん~甲野さんは正確には何と言っていたか)なので、基本痛い部分には負担がかからない。とはいえ足裏である以上は動く度に痛くなる可能性があり、それが気分を滅入らせている原因にもなっています。

何かのはずみで負担がかかってくるとチョット痛い、そんな感じです。

中年以降は良くあるとかで、シュンとなってます。とは言え普通にしていても3ヶ月もすれば治るとかで、そんなに深刻ではなく安堵しています。

武芸とスポーツ格闘技の違いはたくさんありますが、そのうちの一つが「怪我」。スポーツ格闘技ではある程度コンディションが万全の状態で戦いますが、武芸では片手片足がない状態で敵対せねばならないという可能性が常にあります。要するにフェアな条件ではないという意味です。

そういうことで私も時折、片手を帯に挟んでみたり、片目を閉じて遠近感を狂わせてみたり、色々な五体不満足状態で動いてみることがあります。

居合の中村泰三郎先生も昔、片手を怪我された折、怪我をしていないもう片方の手だけで刀を振り、得るものがあったと本に書かれています。武芸の稽古では敵対する相手が1人である、戦闘エリアが畳の上である、自分の体が五体満足である、そういう条件をなるべく外して臨む必要があります。当たり前の事を当たり前のようにやっていたのでは、実戦では役に立たない。そもそも相手と互角な戦いなどと言う都合の良い条件は滅多になく、どちらかがどこかが圧倒的に有利なはずです。

故に全ての条件をくまなく点検して、欠損する可能性のある条件があったら、そういう稽古をしてみる必要があります。その上で戦いには十二分な備えをして、「勝ってから戦う」が如く、戦略レベルで圧勝、戦術レベルでも凌駕した上で余裕を持って戦うことを心掛けたいものです。

私がいつも通勤する路上に野良猫がいます。真っ白な野良猫で近所の方々がエサをあげていますが、実はその猫、右前足が事故か怪我のために不自由です。移動するにも傍から見ていると不自由そうですが、取りあえずちょっとしたところにも上れるようですし、食べるのには不自由していなさそうです。

YouTubeでも何かの原因で後ろ足が不自由になったネコが前足だけで器用に歩く動画がアップされています。

動物は人間と違って肢体の一部がないことを自然に受け入れます。

「ああ、右足が故障してなかったら」

「左後ろ足が切られてなかったら」

という風には考えません。(ま、動物になったことがないので分かりませんけど)

考えても仕方のないことを考えるのが人間で、動作と思考を常にぴたっと一致できるのが動物です。私はそのように理解しています。

禅でも考えても仕方のないことは考えずに斬り捨てるのですが、武芸も同じ事。「タラ・レバ・カモ」を排除して、妄想や幻想を徹底排除できた側に勝機があります。物量や状況が圧倒的に有利でも、妄想や幻想、固定観念や先入観に取り憑かれればごく簡単に打ち負かされてしまいます。

手がなければないままに、目がなければ見えないままに動く。もちろんその境地に到るにはそれ相応の厳しい修行は必要ですが、妄想や幻想を排除しないところにはその完全な動きは到れないと考えます。何かどこかに完全な状態や形態がある、いつか完全なタイミングが来る、そういう妄想を排除してこその自然との一体、真の形態、真のタイミングを得られると思うのです。

逆にそういう風に考えれば、人間であるからこそ、五体満足である事への感謝、三食頂けることの感謝はもちろんのこと、生かされている事への感謝も自然と湧いてくるのではないかと思うのです。

甲冑を着るのも肉体の可動範囲を抑えてまで身を守る必要が迫られるため。

鎧組み討ちに代表されるようにこれはこれで特殊な戦闘法があります。

画像

平成二十七年文月二日

不動庵 碧洲齋