不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

広い世界で狭くなる - 弐

友人夫婦がなかなかおもしろいことを言っていました。

老人になると発現してくる、老いの現象についてです。

痴呆や記憶障害、徘徊や体力減衰などなど。

例えばその老人がいる社会で、「歳を取れば物忘れがひどくなるのは当たり前」という共通認識があれば、その老人は「記憶障害」ではなくなります。それは普通の人の加齢に伴う現象の一つとして認識されます。

地域社会のつながりが希薄になり、家庭も核家族化が進み、かつ共働きになると、加齢による老化現象に対する寛容度が低くなります。家族は機能性を優先させねばならないからです。

200年前と今で痴呆の現象が変わるわけありません。長寿が増えて老化の進んだ人は増えましたが。

社会がそれに対して寛容でなくなった、人としてのキャパが狭まったという事です。

本来現代的民主主義社会では肉体的精神的な障害や加齢によって普通の暮らしがしにくくなった老人たちにとって、住みやすい福祉国家であるころがよしとされていますが、昔は地域や家族が行っていたことを国がやらねばならなくなったと言う辺りに問題がありそうです。

地域社会がもっと強いネットワークだった頃、人によっては「地域のしきたりにがんじがらめになっていていやだ」と言う人も多かったとか。私も今のところに35年前に引っ越してきた折、地元住民と新興住宅住民との間には随分と色々な意味で隔たりがあったなと思ったものです。縛られるのがイヤなら一族の面倒も自分で見るべきという自覚を、各自で持つべきでした。

外国人との付き合いですが、私は必ずしも例えば欧州人たちが異国文化の扱いがうまいとか、そういう風には思っていません。貧乏金持ち、貴賤で差別されることは少なくなりましたが、やはり今でもある差別が「元宗主国VS元植民地」。これは厳然と今もあります。欧州で3K労働に従事している人の比較的多くは元植民地国民であることが多い。

そういう意味も含め、ここ数年欧州人の同門たちに聞いて回っている「果たして移民は成功するかどうか」の問いは、ほぼ100パーセント「失敗」「日本はやらない方がいい」という答えが返ってきます。近未来まで含めるとうまく行っていそうな国はないのです。

世界は別段寛容さで動いているわけではなく、その国々の思惑で動いています。

そういう意味では日本は外国人の在住者数が少ないためか、思惑は比較的少なく、寛容であることが多いと思います。差別などが全くないとは言いませんが、反日国家の国民が多く住む割には問題はかなり少ないと感じます。

豪州や米国など、ほぼ移民だけで成り立っている新しい国は別ですが、それでもアメリカでは元々そこにはいなかった、そして強制的に連れてこられた黒人などは社会的な問題です。人種問題、移民問題というのはそのくらい根が深いものです。ある意味、あちらとこちらにキチッと分けずに朝鮮民族をも融合したり取り込もうとした戦前のやり方は随分と甘い見通しだったのかも知れません。ビシッと分けていたらもしかしたら噛み付いてくることはなかったと思います。それは今の英国と旧植民地国家を観ていれば分かります。(英国は戦争などで負けてはいませんが)

とは言っても日本の労働人口が減り、結婚の数も子供の数も減ってきている現実があります。そこに来て彼女もいなさそうな人まで「移民反対」など言われては、これは感情論他なりません。さりとて安易な移民は私は絶対に反対です。神様はよほど非肉好きなのか、世界でたった2.3ヶ国しかない反日国家の国民が、日本語学習者の半数近く、海外からの観光客の多くを占めているという現実に辟易させられます。

移民は認めないことには少なくともこの30-40年は切り抜けられそうにありませんが、移民の敷居をなるべく高くする。そして例えば国毎に統計を取って、国内での犯罪発生率が少なければ少ないほど優遇して、逆に多ければ多いほどペナルティを科して、移民を受け入れてみたらと思います。純粋に日本に移民してきてもちゃんと法律を守り、納税義務を守ってくれそうな国民を見分けるには国別犯罪発生率は参考になるかと思います。

日本は長寿国とは言いますが、寝たきり老人の多さも世界一。日本ほど長寿ではないにしても、北欧などではあまり介護を利用する前に死亡することが多く、どちらが幸せなのか考えます。介護をなるべく利用せずに済む今からの備え、介護が必要になってきたときの備えではないかと思います。友人の話では「介護」という概念には欧米にはない、日本独特の概念が込められているとか。一言で言うと「おもてなし」の精神。面倒を見る以上の心遣いだそうです。故に東南アジアからの介護研修生たちには「nursing」ではなく「kaigo」として技術を習得して欲しいと行っていましたが、なるほどと思った次第。この「kaigo」は今、世界的に注目されつつあるのだそうです。

文化や伝統芸能のみならず、言語や科学技術、介護技術を通じても日本のものの考え方を薫香の如く伝え広げられる、これが日本がすべき日本文化の広げ方ではないかと思います。これが広まったとき、例えば大戦時の蛮行だと思われていた事も誤解だったり曲解だったのではないかという疑念をもたらすことができます。神風特別攻撃の意義を文字通り主張したところで、議論の下手な日本人では欧米人からコロリと返されていまいます。運が良くても無視。しかしこのような日本精神に立脚した科学技術、介護技術など世に役立つものであれば返しようもなく。

孔子も軍事については要の部分は否定してませんから、安全保障などについては絶対に譲歩してはいけませんが、日本の本分はそんなところにあってはいけない。

理不尽さに寛容であれ。無原則にではないにしても、いちいち中韓反日や欧米の理不尽さ、エゴに腹を立てるような国民は底が浅い。日本には寛容を以てしてなお、転覆させるには重すぎる精神文化、伝統があります。

今、日本は上げ潮です。日本の伝統文化もなかなかの勢いで世界に浸透してきています。運がいいことに世界から日本を敵視している国は五指に満たない数です。アメリカの方がよほど多く、中国に到っては褒めている人を見たことがありません。

そういうことで日本人は今こそ寛く世界に臨み、和の精神を以て接し、世界に冠たる誇り高き日本の精神文化を世界平和の為に世に広めたいと考えています。

その為には日本人ひとりひとりが広く世界を観て識り、深い洞察を持った上で博愛の精神を併せて断固たる決意を持ち、日々を慎み深く粛々と自らの本分を尽したいのもです。

平成二十七年水無月二十九日

不動庵 碧洲齋