不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

命を埋める

多分、留学から戻ってきた1994年頃だったかと思います。

その頃から家では野良猫に餌付けをしていて、母が良く残飯を与えていました。

うちのメイの4世代前の母猫だと記憶しています(苦笑)。

その母親が産んだ子猫のうち1匹だけ生まれついて体が小さいのがいました。

その頃は別段キャットフードとか買わなかったのですが、この小さな子猫のために色々買い与えたのですが、その甲斐なくある日死んでしまいました。

雨が降っていました。

死んだ子猫を見つめている母猫を見つけると、その母猫はその子猫の耳をちぎって食べ始めました。お腹が空いているというのではなさそうでした。

母は「他の野良猫や烏に食べられてしまうくらいなら、自分で食べてしまおうと思っているのよ。親ってそういうものだから。」と言って、スコップを手にしてその子猫の体を庭の隅に持って行き、埋めてやりました。親猫もすぐ近くで黙って見ていました。

今でもその光景が目に焼き付いています。ネコと人という違いはあっても母親同士、何か繋がるものを感じました。

実はその母猫が子猫の時、家の庭に迷い込んできたことから我が家のえさやりが始まりました。最初は面倒だったりゴミを荒らしたりしないかと思ったのですが、エサをやれば決して荒らしたりしませんし、場合によっては懐きます。猫が増えるとは言いますが、4.5匹生んでも生き延びるのは見たところ半分以下のようです。(それでも多いというなら言葉もありませんが)

今の父ネコとメイの姉妹にもエサをあげていますが、彼らは私に親近感を持ってくれています。妻はどうあっても生き物を飼うことに対する理解を持ちたくなさそうですが息子は私の考えを理解しているのでこれはこれで良いと思っています。

今回高校教師が子猫を生きたまま埋めたという事が話題になっています。

この先生、ネコの引っ越しなど、身近な生き物の生態を知らないと見えます。

また、命の尊さに対するものの考え方が欠如していることに恐れおののきました。

少し前の話ですが、ニューヨークで強盗殺人をした犯人が逃走中に小さな子供が車に轢かれそうになり、かばって助けたところ、結局強盗本人が死んでしまったという事件があったそうです。

人の命の尊さとが一番よく顕著に表われた例のように思います。

戦後70年、日本は全く戦争をしていません。これは素晴らしいことですが、日本は長寿大国であることも相俟って命が生まれる、命がなくなることに少し鈍感になってはいないでしょうか。モノが豊かすぎて危険がなくなりすぎると多分人は高貴であり続けることは難しいものかと思うことがあります。そういう意味で平和すぎるほど平和な日本において武道が盛んなのは、人が心のバランスを保とうとしている潜在意識下の行動ではないかとすら思います。

教育とは何を以て教育なのか、古の智慧をよく紐解いて、社会における人としての人格完成を目指した教育を心掛けたいものです。

もちろん、生徒たちはたとえ先生だろうが不義を見たら勇気を持って異を唱えて欲しい。「義を見てせざるは勇なきなり」何が義か何が勇か、これもまた難しい難題ですが、大人になるまでは多少の過ちなら許されます。艱難を安易に避け、自分だけ安逸な状態でいられる人生はできるだけ改めて欲しいと思います。行動だけが現実です。

うちに来た頃のメイ

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平成二十七年弥生二十五日

不動庵 碧洲齋