不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

後の先

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武道に「後の先」という言葉があります。

あまりもったいぶっても仕方ないのですが、文字通りです。

相手が攻撃をしかけてきて、それを見切った上で初動を起こすということです。

昨夜と今朝、何気にネット上でこの言葉について色々検索していたのですが、それらを読んでいるうちに驚かされた事があります。

「後の先」はその通り、「相手が攻撃をしかけてきて、それを見切った上で初動を起こすということ」で、いわばじゃんけんの後出しのようなものですが、先にしかける方だってバカじゃありません。見切らせないような様々な工夫をしています。なにせいの一番に攻撃をしてカタが付くなら戦闘に於いてはそれが一番楽です。特に戦場ではそうです。畳や床の上の試合ならいざ知らず、複数の敵を視認して対応するという、イージス艦のシステム並の対応を生身の人間に求められる戦場です。サクッと倒した方が効率がよく、その為に相手にできる限り見切らせないようにするわけです。

つまり武芸者たる者は

相手からの攻撃をギリギリ見切る訓練

相手への攻撃をギリギリ見切らせない訓練

この二つが重要であり、これを極める為にありとあらゆる奥義を詰め込むわけです。

どれだけ楽に効率的に敵を倒すか、この一点に尽きます。

奥義が流麗な技、神秘的、超越的な技などと想像しているようではアニメの見過ぎです。

本物の奥義の多くは、見た目は本当にシンプルで、奥義が奥義たる所以はそこに詰め込まれた技術や知識、知恵と精神力を指します。闘気やオーラで敵をどーん、と倒すわけではないのです。私が知る限りでは。

他流の末席が言うのも憚られますが、その究極の一つが喩えて言えば塚原卜伝の「一の太刀」ではないかと真に勝手ながら拝察致します。

私は「一の太刀」の詳細は知りませんが、一撃で倒す、武術の理屈で言えばこれが一番合理的です。武器をガチガチさせて勝つのは体力も時間も無駄に消費します。この一撃に持てる全てを投入する、「一の太刀」の奥義はそういうところにあるのだと思います。(違ったら済みません)

ネットを見たら「後の先」を実行する為の心掛け、備えがどこにも書かれてない(ようです)。

相手よりも後に動くのです。まずは四方八方にいつでも自由自在に動ける自然体かつ俊敏な構えでなくてはなりません。

自然のままに動く。相手がこう「来るだろう」という深読みでは相手に逆に読まれたり、ハズすこと極めて大。先入観や固定観念、自己の経験に基づく読みなども「100%」でない故にやはり裏を掻かれることもあります。

世間では「相手の身になってものを考える」のが親切と言われますが、戦いでも同じ事、自己を空しゅうして完全に相手の身になることができたら、そういう意味では相手を読むことができ、これは多分100%読んでいると言えるかもしれません。だからエゴイストは究極の場面では勝てません。あ、これは私の信条に過ぎませんけど。

要は反射神経云々ではなく、事前に身も心も十分な備えをして初めて「後の先」が取れるということです。心身のバランスがよい条件下で初めてこれが出来ます。その準備をいかにするのか、これは奥義に値するかも知れません。秘密にする、という意味では無く多分それは言葉では言い表せないという意味で。

体の準備と心の準備。これが十分にあってこそ「後の先」で動いてしかも敵を制圧できます。

「後の先」と一緒によく書かれていますが「先の先」でも勝てて「後の先」でも勝てる。読ませずに撃破できる、相手を十分に読めて同期、反撃できる。この辺りが武芸者として要ではなかろうかと思います。

そもそも奥義はナイショのことではなく、口で言っても紙に書いても分からない、かゆいところに手が届かないような深遠玄妙な部分です。それをちょとばかり神秘的にしているだけで、素人が見聞きしても多分全然気付かないか意味を理解できません。奥義がありがたいのは自らがそれを理解できるレベルに達していることそのものではないかと思います。

少々偉そうに書いてしまいましたが、少しかじった者のたわけた戯言だと思い、どうかご寛容のほどを。

平成二十七年如月四日

不動庵 碧洲齋