不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

自然を感じる力

昨年1年間、自動車を手放して可能な限りは徒歩や自転車を使って移動して思ったことです。

外気に触れている時間が長くなり、裏道の田畑のあるところをよく歩くと「季節の変わり目の香り」がハッキリと分かってきます。

また天候の変わり目や風向きなども、何となく分かるようになります。逆にそれをよく読んで出掛けるようになります。

今でも日本人は他の国の人と比べて天気予報を気にすることが多いですが、これはその名残ではないかと思います。

その昔は季節毎の食べ物しか食べることができなかったことは、多くの人が知っていると思いますが、では季節毎の野菜とは何かと聞かれても農家以外はほとんど答えられないのではないかと思います。

私たち人間にはこれら自然の変化を捉えることができる感覚を本能的に持っているはずですが、文明の利器に埋没してそれらは日頃は滅多に使われることがなくなってきた為、退化しつつあると思います。

食べ物は季節に関係なく同じものを食べることができますし、生活環境も室内であれば夏も冬も関係なく快適に過ごせます。特別どこかに行かない限りは五感をフルに活用して自然の変化を感じることは難しい。ガーデニングや外で作業する人はそれでもまだ、季節を感じられるとは思いますが。

武芸の話しです。

江戸時代の人々はちょっとぐらい位の高い役付の侍でも1日5キロ10キロは歩いていました。馬や籠などは使いません。

そして何をするにも人の手に成るわけですが、天候や季節、懐具合や対象物によって大変多くの注意事項と選択肢がありました。いずれにしても自ら何か成すことが求められました。

その上で武芸の稽古をするわけです。例えば江戸時代当時の日々の生活がベースになっている稽古ですから、今我々が畳の上でやっている稽古と比べても格段の違いがあったと想像します。

何が違うのかと言えば稽古の精度。江戸時代と言わず、明治や戦前ぐらいまでの人たち、特に武芸を志していた人たちの体を動かす精度とその感覚の鋭さたるや、現代の私たちの能力を遥かに凌駕していたと想像します。もしかしたらペットの犬や猫以上に感覚が鋭かったかも知れません。

それは彼らが特に日々訓練してきたことではなく、日常生活で培う機会があり、更にそれを稽古でパワーアップしていた、と考えられます。

だからそもそも土台が違う。感じる力も、体の動きの精度も。

禅の師匠に尋ねたことがあります。現代ほど見性するのが難しい時代はないのではないでしょうか、と。

師匠はまさにその通りだと言いました。

江戸時代ぐらいまでは一生涯までに得ることができる知識や情報などと言うものは、今の我々に比べると桁が数個違うぐらいにささやかなものでした。

一説によると江戸時代の70歳の情報量は現在では3-5歳児にも及ばないとか。

たくさんものを知ってしまっているところで悟りを開くのと、あまり知識や情報がないところで悟りを開くのとではかなり難度が違うと思います。

お釈迦様の説法を聞いていて悟った人がたくさんいたというのもあながち伝説でもなさそうな気がします。

それと同じように基礎となる部分が極めて弱いところで昔の人もしていたであろう技法を同じように再現するのはかなり難しいと言わざるを得ません。江戸時代の武芸者の動きが何か動画で残っていればよいのですが、今私たちが観ることができるのは画質の悪い明治時代半ばのものがせいぜいです。

私はその「失われた基礎」を見つめ直す必要があると感じ、なんば歩きを始め、10年以上前から基礎以前の基礎の在り方に注目してきました。ハッキリと形としてそれが必要であると感じたのは8.9年前でしょうか。

鋭敏な感覚と重厚な基礎、その上での磨き抜かれた技法がある、と私は理解しています。

そしてその基礎というのは文化人類学的にも多分、興味深いものがあると想像します。

それを意識した稽古、日々の生活をすると、武芸における稽古もまた大変面白い。

昔の人は巡る季節を鋭敏に感じ取り、季節折々の生き方の為の知恵があり、体をよく動かすことによって薬漬け、文明の利器漬けになってしまった我々のような不健康な体とは縁がなかったのだと思います。もちろん、現代の方がずっと良いこともありますが、伝統芸能を精進している身としては、時折、昔の人の知恵に想いを馳せることしばしばです。

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平成二十七年如月二十三日

不動庵 碧洲齋