不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

和の国の肇め

太古の昔、漢字が輸入されるずっと前、日本人の一人称単数は「み」だったそうです。そして一人称複数は「わ」。

時代が下って漢字が使われると「み」は「身」の漢字があてがわれたり、「わ」は「我」があてがわれたりしたという説があります。

なので「み」は身体部位や個々の感情に結びついたものが多く、「わ」は家や里、大君のような、組織などの言葉と結びついたものが多いそうです。

現在では「わたし」の「わ」として使われていますが、もう一つ、「和」日本の雅号としても使われています。

一説には「わ」は弥生時代の環濠集落の環濠を指したとも言われています。つまり「輪」。

そこから「わ」は集落の中には争いがないとか、平和であるとか、そういったものが付随してきたのではないかと考えています。

なので「和国」は「私たちの国」という意味になるそうです。

「わ」(我々)が「輪」から転じて「和」を当てられるとは太古の日本人のものの考え方が豊かだったのか、雅やかだったのか。

私たち=平和、この語源からの変遷に、私は強いメッセージを感じます。

古代日本人的に言えば、環濠をどこまで広げられるのか、ということでしょうか。「トモダチの輪」みたいなものでしょうか。輪の中に入れば調和の取れた、争いのない平和な世界があると言うことだと思います。

輪の中はもちろん、無秩序ではありません。王もいますし兵士もいます、しかし重要な事は調和が取れていること。

かつて孔子は言いました。「君子は和して同せず、小人は同して和せず」日本の場合は調和の取れた秩序ある平和と言うことでしょう。

それを我々の雅号にしているという事実に、私は日本人として運命的なものを感じます。

私はユートピア主義者ではありません。

ある程度強力な軍隊の保有は否定しません。

防衛のための交戦も否定しません。

場合によっては1人に強力な権限を与えてもいいというぐらいのつもりでいます。

重要なのは国民ひとりひとりの教養や倫理観が高いことです。この高さでほとんど決まります。

これが高ければ強力な軍隊を保有していても非難されることもなく、古の兵法にも出てくるまさに「義兵」として抜かずの刀として平和を守れるものだと思っています。個人的にはこれが今のところ軍事力としては一番ではないかと思います。身の丈に合った武器をいつでも使えるようにしておきつつも決して抜かず。哀しい話しですが国家が歩いている街は東京のような平和な街ではありません。この辺り、どうにも理解できない人が多く。

「和」の漢字の方ですが、見ての通り「穀物」に「口」。つまり十分な食糧が民に行き届いている様を指します。

飢えているときにスーパーに買い物に行くのと、腹一杯の時にスーパーに買い物に行くのとではかなり違うことを知っていると思います。私も承認が難しい案件は昼食後に上司に持っていくと、比較的簡単に承認が得られることも知ってます(笑)。旨いものをたらふく食べた後でも残っている問題こそが本当の問題と言うこと。でも実は私たちが思っているほどには多くありません。満ち足りたときでも払拭できない問題というのが本当の問題です。

明後日に建国2675年を迎えるに当って、こんな事を海外にも紹介したいと思い、英文にする草稿を起こしてみました。

世界が最も古い王族と国に住む一市民としては、このノウハウを世界に広めて微力ながら世界平和に貢献したいと思っています。

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平成二十七年如月九日

不動庵 碧洲齋