不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

矛と盾の話し

武芸をしている関係上、武器にはとてもこだわりがあります。

私が所有する木製の武器の多くはその道40年近くのプロが作ったものです。

現在は既に他界してしまいましたが、この方の作った武器は長く鹿島香取を初め、多くの古流で使われていました。因みに日本で出回っている木製武器のうち、本当に匠の手によって作られたのは1割に満たないと言われています。後はほとんどが工業製品ですが、多くは台湾などの外国製であることも多く。

私の所有する武器を使っていると、普通の武道具屋で売っているものがどれだけの質かよく分かります。

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愛用の7尺白樫棒

私は道場で指南する際は「精度」を強調します。

刃筋が1度違ったら、切っ先が1ミリ逸れたら、威力は激減するのが刀剣類の宿命です。

長モノ武器でも手元で5ミリの揺らぎがあったら、先端では数センチ、10数センチの揺れがあり、それだけで既に狙った場所にヒットしません。

故に自分の武器はいつでも手足のように使いこなせるようにして、できればミリ単位の正確さでヒットさせるよう指導しています。もっと言えば急所を狙えば物理的パワーは最小限で済むということ。それが為の精度の高い稽古をする。

その精度を高めるために自分だけの愛用の武器というものを育てるというのが信条です。

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一般よりも細い8分径6尺棒と8角6尺棒

が、それと相反して一つ。

真の武芸者はどんなものも武器として扱えなければ意味がない、というもの。

当流はかなり変わった武器などもよく用いることで知られていますが、極端に言えば武器でないものも武器として使える頭の柔らかさ、柔軟な発想、機転の素早さが求められています。

宗家はどんな身の回りのものも武器にできますが、武芸者たる者、そういう事ができなければダメだと思っています。

自分の使い慣れた武器でないと戦えないようなのは武芸者でも何でもありません。強いて言えばスポーツ選手です。ルールがあってフェアな条件で戦うのは武道ではありません。これはどちらが優れているという問題ではなく。

故に私は市場にはほとんど出回っていないであろう、その道40年の匠、完全ハンドメイドの希少な武器を大切にしつつ、しかしこだわりを持たないよう心掛けています。パッと目に付いたもの、手にしたものを武器化できるということが最大の武器なのです。

いつもと勝手の違う武器を使うのは大変です。間合いが違うし重さもバランスも違う。これを如何に自分のものとするのか、そこが要ではないかと思う次第。この問題を解決するのはモノではなく自分自身の身体能力と知識、知恵、何事にも囚われない柔軟な思考能力、これではないかと思います。私の稽古における狙いはここにあります。

アメリカのテレビドラマで「マクガイバー」というのがありました。主人公マクガイバー氏は何かトラブルに際しては身の回りのモノを有機的に利用して道具や装置を作って危機を脱しますが、そういう感じだと思います。

更に言えば武器がなくとも絶対的に優位と言うぐらい修練を積んでその上で鉄壁の武器を操るという図式です。悪くても素手で負けないぐらいの算段を取るべきです。戦ってみて勝つのではなく、勝つ算段を全部してから安心して戦うものです。大きな戦争でも戦いはバクチであってはなりませんが、個々においても同じで、戦ってみなければ分からないなどというギャンブルはスポーツの試合でも真剣勝負でもすべきではありません。

「勝敗は戦いの外に置く」とか言われてますが、勝敗を忘れて戦えというような盲目的、もしくは宗教的、精神的なことを言っているのではなく、勝つ算段を十二分にして心置きなく戦う事を指していると私は思います。

このくらいは普通の武道家でも考えていると思いますが、その活路を見出す方法として、当流ではどんなものでも武器にする、柔軟な思考を持つことが奨励されています。

当流の道場訓の一つに「忍耐は先ず一服の間とぞ知れ」というものがあります。

ぐっと耐え忍ぶ時間こそ心を休めて備えることに用いる、という考えです。

歯を食いしばって自分の不幸を呪っているヒマなどありません。そんなことをしても勝つことに何の貢献もしません。冷徹に無駄な時間を作らずして、生き残る算段を付けるのです。

基本、当流では「勝つ」ことよりも「生き残る」ことに重きを置いています。武士道とは随分違います。恥辱にまみれ、手足をもがれて泥水をすすっても目的を果たすために耐え抜いて生きる。腹を切って潔く死ぬ、名誉を守るとか誇りを守ることよりも重要とされています。

なので他の古流の方々の流麗で気高い流儀に比べると随分と泥臭く田舎くさいかも知れませんが、私はこれがたまらなく好きなので今に続いています。

平成二十七年睦月二十一日

武神館 不動庵道場

不動庵 碧洲齋 記