不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

平成二十六年度 臘八坐禅会 二日目 所感

私と息子はなかなかのSFファンで、中でもスタートレックにハマってます。

大宇宙を駆け巡る美しいスターシップたちを見る度に、未来に希望を持ちますが、それはもちろん私の息子への目論見でもあります。

このままいくと未来はあまりバラ色とは言い難い。しかし子供にそんなことは言えませんし、そう思って欲しくありませんから明るい未来を見せているスタートレックを鑑賞させて、宇宙飛行士への夢を熱く保たせ、かつ未来への展望を繋げたいという、親のセコい策略でもあります。これでも10代の頃は「荒野の世紀末覇者」を夢見ていたハズなんですが・・・(笑)

スタートレックに出てくるスターシップは超光速で航行しますから、ワープ航法を使います。ワープ航法にもスピードがあってワープ1から10までありますが、ワープ10だけは現在の科学における光速と同じく、どうしても超えられない速度として定義されています。ワープ10という速度はどんなものかというと、いわゆる「無限大速度」です。つまりワープ10とは宇宙の隅々に至るまで、同時にどこにでも存在しているという速度です。宇宙に満ち足りているという状態でしょうか。

息子はその速度の定義を見て、「これ、仏になった状態だね」とコメントしていました。なるほど、SF科学でも仏になれるのかと感心したものです。

昨夜は臘八坐禅会2日目。

昨夜は18時15分過ぎには坐ってましたから、1柱目が終わった時点で70分以上坐っていた計算になります。少しだけ足が痛かったです。足というか足の付け根とか腰の筋肉辺りですが。それでもそういうものに引っかからずに坐れていたのでまずまず深く坐れていたのでしょうか。

おかげで経行が気持ちよかった。リアルに筋肉がほぐれる感じがします。

坐禅は長く坐ればいいというものではありません。我慢大会ではありません。深く坐れることがより重要になります。深く坐るために結果長く坐ると言うだけで、長く坐ることは目的ではありません。

長く坐れればそれに越したことはありませんが、その辺り、目的を間違えないようにしたいものです。

じっと動かずに坐るというのは苦痛のように思われがちですが、慣れるとそうでもなく、肉体の煩わしさを離れて考える時間と場所を生み出すことができます。それに坐禅では適度に休憩を入れて、その間に禅堂を歩いたりして緩急を付けるようになっています。

坐禅後の提唱の話しです。臘八示衆二日目の章に曰く、「楞厳経の中に『一人道を成じて真に帰すれば、十方虚空尽く消殞す』とある」と書かれています。

お題目で「南無妙法蓮華経」とか「南無阿弥陀仏」とかあるのはご存じだと思いますが、「南無」というのは別に南が無いという意味では無く、当て字です。これはサンスクリット語のナマス(namas)から来ています。原義は今でも使われている「帰依」のような意味。もっと昔は「帰命(きみょう)」というような意味が近いのだそうです。基督教や回教、ユダヤ教では「信仰する」と言います。仏教では「帰依する」と言います。仏教が目指す対象は「信じて仰ぎ見る」ものではなく、元々そこにいたところに「帰って寄り添う」ものだからです。現世に個々たる「私」たちが生まれてくる理由は、「それ」をより美しく磨き、また、それを元々あったところに還すという作業のためです。多分、「それ」はとても巨大なので一度に全部は磨くことができないのでしょう。だから少しずつちぎっては磨き砂たる現世に現れ磨かれ、元に戻る、私は仏教における修行はこんなものだと捉えています。ここはあくまで私の場合と言うことでご容赦ください。

「それ」は森羅万象すべてを成す根元でもあります。科学的に言うなら「原子」「素粒子」でもいいでしょう。私たちは一応生きていることになってますが、生きても死んでも、私の体の原子や素粒子の総量が宇宙の中で変動するわけでも無く、それはそのまま形こそ変わっても増減しません。まさに般若心経の「不増不減」です。

「オレ」は「何で死ななきゃならないんだ~!」誰もが死後の世界を恐怖して思い巡らせますが、もしかしたら、「オレ」が生まれ落ちる前、「オレ」は死後の世界で「何で生まれなきゃならないんだ~!」と同じように生後の世界を恐怖していたかも知れません。死後の世界が分からないのなら死後の世界の方々も生後の世界を知るはずもなく。もしも輪廻というのがあるとしたらそんなもので、USBメモリか何かを行き来させる度に初期化して送るような感じだと思います。この行き来は「死後の恐れ」(あるいはあちらの世界では「生後の恐れ」かも)という想いも含めてごっそり初期化して送られますから、想うだけ無駄です、多分。なぜなら想っても想わなくてもその時は確実に来るからです。

私たちは何か理由があって行き来しているだけだと思っています。

虚空が消滅する。「私」が「虚空」を認識しているという相対的な見方をした場合での話しです。

「それ」が「虚空」をしている。「それ」が「私」をしている。

「それ」がたまたま何か誰かを形作っているだけです。

元来、万物が「それ」であって、森羅万象悉く異なって見えるのは、大海の水が波立ってかりそめのにあまた形作っているようなものです。

だから「それ」を知る=「真に帰する」ことができさえすれば「虚空」と「己」が一体何であるか分かり、虚空を消滅せしむことができるということです。私の師曰く、一旦それに帰した状態から改めて「己」を見ると、真の己の何たるかがよく分かると言っていました。

禅という修行方法はこのためであると、私は考えています。もちろん修行方法は宗派、宗教によって異なっていてよいと思います。

平成二十六年師走三日

不動庵 碧洲齋