不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

先日面白い本を読んだ

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先日なかなか面白い本を読みました。

タイトルは「だから日本は世界から尊敬される」。著者はマンリオ・カデロ氏。サンマリノ共和国の大使ですが、この国は世界で5番目に小さな国です。

この著者さんはサンマリノ共和国特命全権大使であり、日本に駐在する153カ国の駐日大使の代表である「駐日外交団長」でもあります。

更に日本在住40年ですから、そこいらの日本人よりもずっと良く日本を知っていると言ってもいいでしょう。

宮中晩餐会にも何度も主席したり、天皇陛下や皇族の方々ともよく接する機会があるとか。

かれの皇室に対する敬意の強さには大変感銘を受けました。

昨今、ネットや書籍で「日本礼賛」式の文章が多々見受けられますが、私から言わせれば全部とは言いませんが8割以上は「非常に臭い」内容です。自国民が母国を礼賛するという行為は、大変厚かましい。良し悪しは別として、私はよく物事をスケールアップしたりスケールダウンしてみて、それでもおおむね普遍的であった場合にのみ、賞賛する方ですが、「母国礼賛」をスケールダウンしてみてそれでも品の良い行為かどうか。私の基準ではそれは確実に「下品」の部類に入ります。とても臭いです。臭います。

よその国では分かりません。血走った目で祖国礼賛を叫ぶのが良い場合もあります。車のガラスに「I love this nation!!」というシールを貼ったり、国旗を貼ったりするのがいい場合もあります。敵対する他国を罵るのが愛国精神だったりします。軍隊に入ることかも知れません。国それぞれだということです。

日本の場合です。「自画自賛」という行為は、日本では「悪い意味」で取られています。下衆な人間がすること、と考えられています。私もそういう手合いはどうしても好きではありません。私が知る限り、品位があるなと思う人の大半は、国にも自分にも自画自賛を持ち込まない人です。私自身、一国民としてどうしても日本に害をなす国に対しては最低限の批判は日本語や英語でする事はあります。

祖国を愛してはいけないという意味ではありません。

日本人としては・・・「自分の国を言葉で賛美する行為」はできるだけ慎みたいところです。

その代わり行為、行動、そういうもので日本人たることの何たるかを見せるべきだと思います。

最近では大きなスポーツイベントの後のゴミ拾いなどがそれに当ります。

マンリオ・カデロ氏も著書で「一部の反日国家に対しては言葉ではなく『王者の品格』を見せつけるべきです。同じ土俵に上がってはいけません。」と書いていましたが、全く以て同感です。同じ土俵に上がれば足が汚れるだけです。全部はもちろん無理ですが、可能な限り言葉は良いことのために用いたいところ。非難するにしても論理的、説得力に富むものでありたいところです。どんな種類であれ、例えばヘイトスピーチなどもってのほか。そもそも昨今では国際結婚も盛んです。それを鑑みれば、愚かなデモをしたところで利なくして害のみが返ってくるだけです。個人的にはそんなことも分からぬのかと呆れますが。

また、言葉による日本礼賛は海外の方々によってのみ成されるべきです。言葉は自分自身を誉めるために用いたくはないものです。少なくとも日本ではそうであると思っています。

近頃はがんばった自分にご褒美などと言う文言を見かけますが、冗談ならともかく、そういう考え方を本気で実践すべきではありません。日本人の品位が下がります。

マンリオ・カデロ氏はまた、軍事力に関しては、日本は軍備拡張レースに参加すべきではない、それに参加しなくとも日本の品位を以て優位ならしむことができる、というような主張をされていました。ここは難しいところで、理想論的には私は大賛成です。現実的には今はとても難しい。ただ自衛隊の最新兵器に嬉々としているような日本国民は残念ですが私的には「愚か者」です。優れた侍は名刀を持ったからとて嬉々とはしません。より慎み、静まるものです。「どうだ見たか」というような自称日本国民は伝統や歴史を語る資格はないかとすら思ってしまいます。

民度が高い、と言われますが、これは日々私たちひとりひとりの日本人が慎み行ってきた結果であり、慎み行ってきた結果であれば尚更高々と掲げて誇らしげになるのもいかがなものかと思います。日本人の素行や慣習、製品はもとより歴史や伝統など、世界のかなりの国々が認めているところです。私たち日本人はそれを研鑽して次の世代に黙って渡す、そうあるべきではないかと思う次第です。

平成二十六年霜月五日

不動庵 碧洲齋