不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

エリート意識ということ

エリート意識は人をダメにする。先日禅の師匠が言っていたことですが、歴史から見ても確かに王族や貴族、近年では「エリート意識」という単語が否定的な意味で使われていることから、やはり良いことではなさそうです。

日本では皇族や武士階級、もしくは華族などがそれに当りますが、少し違うようです。皇族は数こそ減りましたが今を以て敬意を持たれ、憧れの対象ですし、武士階級に至ってはもうないのに未だ多くの人の憧れの対象、習うべき対象にされています。普通は古い体制から新しい体制になると旧体制の階級は悉く否定されることが多いのですが、日本ではさにあらず。不思議なものです。戦前戦後では軍人に敬意を持たれなくなったことぐらいでしょうか。それでも昨今、自衛隊の活動が知られるに及んで、戦前とは意味合いは違うのでしょうが、やはり敬意を持たれる職業に復帰しつつあるように思います。

とある大きな大本山坐禅会の話しですが、古参の会員がどんどん厳しくなっていき、挙げ句の果てには僧堂の修行僧ですらビックリするほどきつい規律や先輩後輩意識を重んじていたりして問題になっていたところがあったそうです。今は改善しましたが。本来、在家の坐禅会はそういうものではないと私も思います。

僧堂においても長らく修行をしていることで悪い意味でエリート意識を持つとこれまた道を外してしまうのだそうです。僧堂に限らず一般社会でも同じではないでしょうか。ども職場にもいます。ヤンキーというか暴走族などは先輩後輩の関係が厳しいのでしょうか、うちの会社の元ヤン君などは私よりはずっと古いですが私よりも年下にも拘わらず私を「君」付けで呼びます。会社で私に君付けする人は他に社長ぐらいです(苦笑)。まあ、私も媚びる雰囲気を全く見せず、普通にコミュニケーションを取っているのが気に入らないようですが、それは仕方がない、だってそんなチンピラ、ヤンキーなどより数百倍も怖い人たちと稽古をしているのですから。凄んで見せても時々頭を撫でたくなる程度です。やっと最近は「いや~困ったな~」みたいな雰囲気というか演技が出来るようになりましたが、面倒ですね。

武芸においても同じ事。

古参だから、段位が上だからとあぐらを掻いているような輩は即足下をすくわれます。武芸歴が長い、段位が上、年齢が上、そういう他人と客観的に比較できる程度のものをひけらかしているようでは全然だめです。話になりません。そもそも本質的なものというのは元来比較できるものではありません。

欧米の門下生によく見られるタイプですが、自信満々、滑舌良く、流麗な演説、力強いスピーチが滔々とほとばしるような高段者ほど下手なのが多いように感じます(全員とは言いませんが)。

段位やキャリアに関係なく、悩んでいる人、迷っている人、黙々と励んでいる人の方にうまい人が多い。私もそういう人と組んで稽古をするのが好きです。私も自ら進んで積極的にアドバイスなどしません。そんな余裕はないし、そんなに偉くもない。ただパートナー側で自分よりも上だと思った場合に限り、最低限のことはアドバイスはします。自分がうまいと思っている人にアドバイスしても反発されるだけだし、アドバイスを必要と思っていない人に言っても無駄というもの。余計なことはしない。本来武芸の稽古はかくあるべきだと思っています。

フェイスブックで色々書かせてもらってますが、これですら本来はあまり書きたくありません。しかし当流の日本人で英語で発信している人があまりにも少ないこと、海外での知名度が多く、外国人同門の数がとても多いことからやむなく書いている様な感じです。何度も言いますが、本来あれこれ武芸や禅について書けるほどには私は知識も経験も胆力もありませんが、やむなく書いているだけです。強いて言えば書くことで自分の考えがまとまってくるという程度でしょうか。出来たらもっと語学力、知識、経験が豊富な後輩がいたら喜んでこの作業を譲りたいと思っています。誰かいませんかね?

私の武芸の師について。

入門してから37年ほどですが、ほとんど宗家の稽古を休んだことがありません。もちろん自分の道場も自分の都合で稽古が中止になることは希です。

私も時折本部道場の宗家のクラスに行きますが、師が偉いなと思うのはいつも多くの門下生のひとりに混じっていること。宗家の受けはよく指名されますが、決して古参らしく振る舞わないこと。宗家の事務仕事に至るまで手伝っていることなどなど。陰に徹しています。よく考えたらこれは難しい。

ちなみに今の宗家の師匠もものすごい達人だったとのこと。しかしながら隣にいた人はもちろんのこと、親類ですら前宗家が何をしている人だったのか分からなかったとか。(食堂経営のオヤジという以外)本物の武芸者は本来このようであるべきだと思います。

禅の師匠も詳細は申し上げられませんが、実はとってもエラい高僧で(笑)、本来、檀家が全くいない都心の一軒家と見まごうようなちっこい寺の住職などしている方ではないのですが、本人曰く「衆生の中でありつぶれる。衆生の中にいて布教をし続ける、これが本来僧侶がすべき事だ。」とのこと。檀家うん千人の大寺院の住職を何度も断ってきました。師匠の師もまた、幾度も幾つかの大本山から管長の推薦があったのを全部断り、都内の寺(さすがにこちらはちょっと有名ですが)の一住職として生涯を終えました。

「名人」と「達人」という単語がありますが、私は達人を目指しています。多分なれないと思いますが取りあえず達人を目指し、その道の途上で死にたいと思っています。こういう時代ですからある程度の名人なることはそんなに難しくはないように思いますから、逆に余計、名人にはならぬよう注意したいところ。いや、名人が悪いというのではなく、私にはその器がないと言うこと。例えばタレントでも達人とは言えないが名人だと思う人は多い。そして彼らが世を和ましてくれているならそれはとてもよいことだと思っています。

45になって、この達人の道をどう歩むのか、霧が晴れつつある山道のように見えてきた感があります。

我利我利と

音を立てつつ

我武者羅に

進む先には

地獄門の待つ

平成二十六年神無月十六日

不動庵 碧洲齋