不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

見えない聞こえない

週末は色々と行事が立て込んでいたために、なかなかまとめるのが難しいのですが、思い付いたままに綴りたいと思います。

日曜日は早朝に県内の坐禅会、宗家のクラス、そして都内の坐禅会と、かなりきついスケジュールでしたが、その一番最後の都内の坐禅会にて思ったこと。

都内の坐禅会には比較的若い方や初心者が多くやってきます。老師が坐禅の指導を丁寧に行ってくれるからです。7年も通っていると色々な人がやってくるのを見かけます。

心身の病気に苦しむ方、大切な方を亡くされた方、仕事や家庭の問題で追い詰められた方(私もその口でしたかね)、自分の性格によって自分が苦しむ方、などなど。ここに来ると物質的に豊かであることがどれほど無意味か思い知らされます。

最近、同情を覚えるのが年配の方。これも色々な方がいらっしゃいますが、60歳とか70歳になって他の、例えば宗教に頼らざるを得ない自分に苛立たしい人もよく見かけます。60、70ともなれば老師よりもずっと年上です。耳順、踰矩ともあろう者が年下に人生の悩みを話さねばならぬシチュエーションを考えると、ここ最近は胸が痛むことしばしば。素直に話す方はまだいいのですが、頑固とか自我が強いとか、そういう意味で人間関係がこじれにこじれてどうにもならなくなってやって来る方などは時々手が付けられない体である場合もあります。多分プライドとかキャリアとかが邪魔をするのだと思います。

日曜夕刻の坐禅会には外国の同門と参加したのですが、その時の話し。

開始1時間前に到着していて、色々禅について質問されたことに答えていたのですが、そこにたぶん70歳近い方がやって来ました。武芸をかじっている関係柄、人の表情には割に敏感な方ですが、口をへの字に曲げて表情に乏しい人が実はいい人だったというのはドラマ以外にはあまり見ません。やってきて服を掛ける矢否や、私と同門に向かって良く聞き取れない英語で「うるさいから黙れ」というようなことを言い放たれました。実は言っている意味はほとんどよく分かりませんでしたが、英語圏で考えるとかなりきつい言い方だったように感じます。

外国人、英語を母国語としない人に話す場合はゆっくり、少し大きめの声で話しますが、もちろん大声と言うこともなく(場所が場所ですから)。また30分ぐらい前からは人も来ますので普通はもっと小声ですが、1時間前から話していて文句を言われたのは初めてです。もちろんこれは皆が座っている座禅堂の話しではなく、そこから離れた場所です。新参とは言っても年上なので一応一礼して謝りましたが、内心は「やれやれ」。

茶礼の時などもその方の質問などに耳を傾けていましたが、良くいるタイプです。仏教や哲学について良く知っているのですが、それでもここにやって来ざるをえないタイプ。せっかく懇切丁寧に話し出ても自我やプライドが大きく邪魔をして聞こえない見えないという感じの方です。質問の応酬を聞いていると、まあこれでは人間関係が円滑であるはずもないよなと思ったりしました。

10年前とは言わず、5年前だったらこういう手合いには手厳しい応酬をしたのですが、ここ最近は上記の如くその方の身になってみることも割と出来るようになってきました(苦笑)。遅いと言えば遅いのですが。

自我が強いことで良いことと言うのはほとんどありません。

何をするにしても自分を勘定に入れない事ほど世の中がうまく回ることはありません。まあ、これは師匠の受け売りですが。

また、何を観るにしても善悪で見ないこと。それはほぼ個人の主観であるか、そうでなくともそんなものは不変でもなく絶対でもない、ましてや世の中の在り方はそんなものに因ってはいません。

私も耳順あたりになったときには、今ひとつマシな人間になっていたいと思う今日この頃でした。

平成二十六年神無月十四日

不動庵 碧洲齋