不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

一つの事実に・・・

分からせるというのは本当に難しい。

分かったかどうかは紙面では分からない。

分かったつもりでいても紙面だけかどうか、それを峻別する能力が師の優劣を決めるものかも知れない。

最近私はその方面の能力が欠如しているんだなと痛感させられた。

1人の人が死んだ。

大抵の人が同情する。

ひとりの若い女性が死んだ。

若い男性なら更に同情する。

美人だったらもっと同情する。

不慮の事故だと加害者に強い憤りを感じる。

・・・

それが韓国人だと冷笑するという人がいる。

死んだ女性が比較的反日だと「ざまあみろ」と思う人がいる。

・・・

彼女の親は世界の全部が死んでも娘を助けたいと思う。

兄弟も自分を呈しても助けたいと思う。

彼女のファンも出来るだけのことをしたいと思う。

イスラエル人の多くはパレスチナ人がどれだけ死んでも全く気にしない。

パレスチナ人の少なからぬ人たちはイスラエル人の犠牲を喜ぶ。

私の息子が危機に瀕して10人の命が必要だったら、もしかしたら10人の命を奪うかも知れない。

殺されそうになった人たちはよってたかって私と息子を殺そうとするかも知れない。

誰かの子供が他の1人を殺さねばならなかったら親はそうするかも知れない。

殺されそうになった人は逆にその子供か親を殺すかも知れない。

人が1人死んだ事実は一つなのに、これだけの価値観が跳梁跋扈する。

私はこれだけ大きくブレている価値観が恐ろしい。

故に私はこの事実だけを見るようにしている。

特に武芸者は殺戮の快楽に溺れず、攻撃の悦楽に耽ず、武技を用いたいと思う誘惑を断つ心を持たねばならないと思う。これは実際の話ではなく、心の中でも同じこと。

聖書にも「心で姦した者はすでに姦したのと同じだ」とあるが、武芸においても同じである。

この矜恃有ってこその侍であり、日本の武芸を継承している者である。

これがなかったら野党、山賊と同じ。

最近では文面やその人の立ち姿でも矜恃が分かることが多々ある。

技のうまさで判断はしない。

本当のことは一つなのに、それに付随した陰だけを見て価値を付ける。

1000年前も1000年後も10億光年先も知ることが出来る人類の知恵でもそんな簡単なことが見通せない。

インターネットが隆盛になり、地球の裏側とも秒速で繋がれる時代になったのに、ITによって言語の壁を乗り越えて話せるようになったのに、重要な事実そのものが見えてこない。

多分これは人間の劣化だと思わずにはいられない。

この劣化がもし、他国であれば正直あまり関心が無い。

しかし自分の国だとそうもいかない。

世界で最も古い国だったら尚更だ。

世界で大きな影響力を持つ国だったら言うまでもなし。

私はある意味世界で最も高貴な国の一国民として、国の名に傷や埃が付くのを本当に恐れています。

今日はあまり整った文ではありませんが何卒ご容赦ください。

平成二十六年長月五日

不動庵 碧洲齋