不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

老いは追い負いやってくる

先日稽古に行った折、電車に乗ってきた方がいました。

70歳ぐらいにはなっていたでしょうか、ご老人です。

少々汚れた作業着などを見るに工事現場作業員かと思います。

コンビニ袋にはヘルメットや安全帯などの商売道具が無造作に詰め込まれていました。

そのご老人は電車に乗る矢否やドアに寄りかかってヘナヘナと座り込んでいました。

私も昔アルバイトでガードマンを少しやっていたことがありますが、工事現場の作業は楽では無い場合が多い。しかし現実に作業をしている人の多くはまずは高齢者と見られてもよい人が圧倒的に多い。

世界でも1.2を競う進んだこの国のインフラを支えているのは、こういう高齢者たちであることに、複雑な思いがします。

もう一つは昨日、息子の体調が思わしくなかったので医者に行ったのですが、診察を受けている間、隣の治療処置室で老婆が痛みに耐えかねて唸っていました。

「先生、痛い痛い、苦しい・・・」

どんな処置をしていたのか分かりませんが、本当に苦しそうでした。

お釈迦様は人の根本的な苦しみは「生老病死」の四つだとおっしゃっていました。

友人の言葉だったかと思いますが、人は障害にはあまり関心が無くとも、老いには必ず関心を持つ。何故なら障害にならないことはあっても、老化は皆に必ずやってくるものだから。個人的にはこの4つの中でも病はある程度防げますが、予防のために奔走しすぎるのもまた、人生を空しくするもののように思います。また、お釈迦様の時代よりはもしかしたら病の恐怖は多少、薄れているのかも知れません。

とはいえ生まれて老いて死ぬ。その生きているプロセスは誰も絶対に止められません。多分神様だって止められないでしょう。禅をやっていて少し感じたのは、そのプロセスを無理して忘れたり、避けるために狂奔したり、それらに対する妄想が肥大化したり、「生老病死」そのものよりも、それらを回避したり妄想することが苦しめているように思います。

どんな人生も楽しめるのが一番なのですが、そうでなくとも例えば死ぬまで平坦な道だったら、これまた死ぬ程辛いのではないかと想像します。松本零士先生の「銀河鉄道999」では機械化人間が出てきますが、死ななくなると逆にリスクの多いことは避けるようになり、享楽にふけるようになるそうです。その内それがつまらなくなって死ぬ機械化人もいました。

やはり楽とか苦しいというのは他と比べるから。お金持ちだったら苦労しないのに貧乏だから苦労している。イケメンだったらそつなく女性にも声を掛けられるのに、不細工だから苦労している。頭脳明晰だったら楽々昇進なのに、頭の回転が悪いから苦労している。これらは皆。「ないもの」と比較しています。もっと若い頃の自分と比べて、実入りが良かった頃の自分と比べて、人生がうまくいっていた頃の自分と比べて。そういう意味では宝くじや保険なんて言う商売はいいところを突いてます。ドラえもんみたいにタイムマシーンがあるならともかく、それがない以上は今、ここにいる自分以外の何者にもなれません。みんな分かっているはずなのですが、どうしてもそこから離れられない。苦しみの本質はそこから離れられないところにあると言えます。

禅を始める前の自分はどれだけ多くの妄想に囲まれ、無駄な精神力や体力を使って格闘していたことか。人それぞれでしょうけど、私の場合は人生の質は禅によって高められたと言えます。

私も人生の半分を超してしまいました。残り半分弱はその時のその場を生き尽くし、生き潰すことに徹底して、更に質の高い人生を生きて参りたいと思った次第です。

平成二十六年葉月十一日

不動庵 碧洲齋