不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

修行に想うこと

私は修行という言葉をよく使います。

これは広義の稽古という意味です。

技の鍛錬、術の向上、知識の習得、心身の錬成などなど、たくさんの意味を含んでいます。そして重要なのが修行の場所。どこでも、いつでも、です。

もう少し厳密に言えば、自分は修行している、と思ったときと思った場所がまさに真の道場の稽古、です。

芸事の理解が深まってくると、初めは道場内で稽古相手の相対したときだけの意識が、そのうち道場に出入りする間になり、それが稽古に出掛けるために家を出て家に戻るまでになり、やがては日常でもその意識を保つことができます。箸を取る手一つ、ドアを開ける所作一つ、一歩。一挙手一投足全部です。熟練してくるとそれら全てに隅々まで意識を行き渡らせることができるようになってきます。つまり、これらにどれだけ意識を集中させて、自分が持てる動きの精髄をつぎ込んでいるか、それが修行の本来あるべき姿です。

これを理解して実践している人とそうでない人との差は膨大です。道場で汗を流してやった気になっているだけの人はこの差を埋めることは多分できません。そもそも道場内での稽古はそれ以外での稽古の総まとめ、微調整、反省、確認でしかありません。道場内で錬成という人は、少なくとも達人ではないと言えます。

また、奥深い山で錬成するだけではありません。心静かに励むだけではありません。特にこの現代ではそうです。事務所の中でも通勤ラッシュの中でも修行です。理想の修行場所を探さないこと。あなたにとっての理想の修行場所は「今」「ここ」以外には絶対にありません。ふと隣を見て理想の修行場所に見えたら十中八九、それは妄想です。隣の芝は青いと言うヤツです。

・・・これらがあって初めて、道場内での汗水の尊さ、深山での独り稽古の意義が明らかになります。私も昔は意味も分からず時折山奥に行きました。まあ、それはそれである程度意味はありますが、今の修行と比べたらお子様のお遊びのようなものです。山奥の独り稽古でも日常生活の中でも同じように狙いを付けて生活できていることが、つまり修行です。漫然と道場で汗水を流しているのは修行とは言いません。単なる練習です。

近頃は技の良し悪しだけにしか目が届かない同門が多いように感じます。技はとてもうまい、でもそれ以外はあまりお話にならない。これは練習と修行を混同しているからかと思います。

例えばフランス料理をきちんと食べるのにはテーブルマナーが必要ですが、テーブルマナー自体は単なる技術、テクニック、もしくは知識です。武道で言えば技です。そして席上で交される会話は術です。そしてある意味肝要なのが食事の前後の立ち居振舞です。技だけうまい人というのはテーブルマナーの技術は良くても食事のウィットの欠如や食事前後が粗野で話にならない場合。そういう人はテーブルマナーがよくても全然話になりません。

武芸者と言わず、その道の修行者はそういう意味で広く芸事を俯瞰していただきたく思います。

例えば茶道を学ぼうとする人がいた場合、それを始めるに当って勘案することが良い設備と良い道具の有無、先生の資格の権威だったら。ある程度基本的なことを学んだらちゃんとした先生に就けば良いと思っていたら、その人の芸事は所詮そのレベルです。そういう人は私の経験では技術と知識だけは上達するかもしれませんが、それ以外にはあまり何も見るべきものがないように感じます。伝統芸能を学ぶ意義は少なくともそういうことではないのです。

もっとも、厳しいことは言っても人にはそれぞれのレベルがあることもまた然り。今自分が望んでいる以上の師は決してあなたの前には現れません。高い志がある修行者に、志の低い指導者は目に入らないのは言うまでもありませんが、その人の志以上の高さの師もまた、見えることはありません。こればかりは仕方の無いことですが・・・。

修行の字義の原義は、辻で箒を持って掃き清める様を表わしていると言われています。とても基本的なことです。私はしばらく何故辻なのか考えてみましたが、辻は人が行き来する要衝です。そこを掃き清めるという行為がどれだけ重要か、思うようになりました。人の往来が為の行為。とても基本的な行為の積み重ね、基本的な行為に対する意識の集中を継続させること、この辺りが修行の根幹ではなかろうかと思います。

修行者皆様の修行がその道にあってより深く、より広く、そしてより高くなるよう、祈っております。

平成二十六年葉月二十八日

不動庵 碧洲齋