不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

墓参り

先日、息子と墓参りに行きました。お盆には間に合わなかったのですが、基本うちでは毎朝懇ろに読経をしますし、多分普通の人よりもたくさんお寺に行ってますのでいちいち節目節目に墓参りに行かずとも良いという風潮です。合同盂蘭盆会法要会などというものもあるのですが、私は毎週そんなものよりはるかに質の良い提唱を聞いてますので、あまり必要も感じません。

今年からは車がないので自転車で10分ほどかかります。10分なので大して遠くもないのが助かります。

墓参りに行くと、息子が必ずやることがあります。それは墓に備え付けの花瓶を洗うこと。真冬の寒いときでも手を真っ赤にして手抜きもせずにきちんと洗いますし、真夏などは結構臭いにも拘わらずやはり文句一つ言わずに洗います。いつだったか私が代わりに洗おうとしたらかなり怒られました。

花を生けて供え物を置いて線香を供えるときはいつも嬉しそうです。そして私が読経を始めると真剣に手を合わせます。読経は家の仏壇で唱えているのと同じです。

その日の夜、風呂に入ったときに息子に尋ねました。

「墓参りなんて結構つまらないと思うんだけどさ、どうしてちゃんと行こうと思うんだ?」

「なんでそんなこと聞くの?」

「いや別に」

息子は少し考えてから、

「ジイジがさぁ・・・」

それだけ言って黙ってしまいました。結局それだけでした。

智慧の利いた言葉でもなく、流麗な回答でもなく、重たい口を開いて微かに覚えている私の父について、たぐいよせるような気持ちで言ったその言葉だけで、私は全部理解しました。

一言などでは言い表せない、濃密すぎて言葉にできない、そんな感じをひしひしと受け、思いがけず息子に圧倒されました。

息子がこんなに真摯に、深い思いで墓参りに付いてきたとは今まであまり考えもしませんでしたが、感銘を受けました。

私は息子によく私の祖父母や父母の話をします。それは私の母がよく私に母の父母の話をしたからです。最近では遥か昔、鎌倉時代の先祖の話もします。

私は基本、神や仏、先祖の話以上によい、子供に聞かせる話は無いと思っています。私の両親は私にあまり神仏の話しはしませんでしたが、私が大人になってどちらにも縁を持つようになったのだから、これは息子にも言って聞かせよということだと思っています。

自分の軽薄な知識をひけらかすより、神や仏について語り合ったり、父母から受け継いできた先祖の話を繰り返し聞かせることの方がよほど意義深いと思います。

私が自分の知っていることを話さなければならないときはなるべく、これらの話に添えるような気持ちでいます。そもそも分かったつもりでいる時ほど何も分かっていません。

息子の心には今、膨大な数の先祖が織りなしている系図があり、その最先端に自分がいることをよく理解しています。その中の立った一人が欠けても自分は存在し得ず、その血の流れがどんなものであるべきか、時々考えているようです。だから命の尊さもよく理解します。「自分の命」など言おうものなら冷笑されます。以前そんなことを言ったときは「命は自分のものじゃないんだよ」と返されてしまいました。命がこの雄大な流れであることをちゃんと実感している辺り、ありがたく思います。

「我が一族で初めて、地球を外側から見てみろ」とか「我が一族で一番遠いところまで行ってこい」とか半ば冗談で言いますが、実際言ってみると意外に笑えないほどの実感を感じます。勉強をしろとか学校に行けとか、そういうありきたりの強制した言葉はありきたりの人間を作り上げるだけだと私は思っています。息子の将来が輝かしいものであるためには自分が発する言葉もまたキラリとしたものでなくてはならないと思っています。

臨済禅では「公案」というものがあります。

いわゆる「禅問答」として知られている問答です。

そのやりとりは今、日常語ともなっている単語で表現されます。

「挨拶」がそれです。挨は「迫る」、拶は「切りこむ」こと。師匠と弟子との問答のやりとりのことです。

普通に考えたらつかみ所の無いような命題に切り込んで答えねばなりませんから、答える方も必死ですし、受ける方もまた然り。

私は息子と会話をやり取りするときはいつもこの気持ちで臨んでいます。何気ない一言でも息子にとって有害であれば決して言わないようにしますし、有意義な言葉は聞かせるように言うように努力しています。ま、なかなかうまく行かないものではありますが。

親の口癖は子供にも移ります。性癖も然り。愚痴や皮肉、命令形や注意ばかり口にしていれば子供も必然的にそうなってしまいます。親としてどうしても言わねばならないときもありますが、そういう砂を噛むようなことは最低限にして、滋養溢れる言葉をなるべく与えるようにしています。

息子が将来、30万キロ先や1億キロ先から地球を眺めるようになれるかどうかは分かりませんが、無数の先祖の血の頂点にいる自分を慮り、己を余すところなく有意義に生き尽くし、生き潰れてもらえるよう、今後も育てていきたいと思います。

秩父の禅寺に行ったときの息子

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平成二十六年葉月二十六日

不動庵 碧洲齋