不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

巨岩をタガネで少しずつ

2年ぐらい前からゆるゆるやっていたロシア語の勉強を今年に入ってから集中してやるようになりました。

取りあえず意味は分からなくとも読み書きも概ねできるようなレベルになっていました。使っているテキストはNHK新ロシア語入門というものですが、最近は多くなってきたロシア語のテキストの中ではなかなか良く出来ているように思います。大体1週間に1課ごと勉強しています。

私の勉強方法は毎朝5時から6時までテキストの本文をひたすら覚えて何も見ないで書けるようにすること。一度に全部は無理なので、概ね4-5に区切って毎日一区切りごとで覚えます。

徒歩通勤では往復約1時間ですが、その週の分のページをコピーした紙を手にして、ウォークマンにその該当課を吹き込み、繰り返しそこを聞きます。そして実際に発音もします。発音は自宅や会社ではできないのでこの通勤途中の聞き取りと発声はなかなか重要ではないかと思う次第。

会社でも昼休みはやはりウォークマンでひたすら聞き取りながら、文を書きます。1日1-3段落程度は覚えないと間に合わないので、朝書いたものをどのくらい覚えているのか、昼にはなるべく見ないで書くようにします。で社内でもちょっと時間があるときはやはりひたすら書きます。自宅に帰ると家事が多いのでなかなか時間は取れませんが、それでもやはり寝る前に1時間程度は書くようにしています。

土曜日ぐらいになるとその課の本文はほぼ間違いなく書くことができ、かつ話している事も完全に理解できるようになった上で本文の次の見開きの文法的な説明と例題に取りかかりますが、大体それをするのが週末。

ネイティブが近くにいないのが痛いのですが、今やネットでロシア人と自由に会話することもできますが、文章を打ち込むにはキリル文字があるキーボード出ないと少々難しい。私は英語/ロシア語キーボードを買い、更にキーボードに貼り付けるキリル語のシールも買いました。キーボードの方が楽ですが、101型キーボードなので、記号の位置がずれてしまって文字以外を打つときは少し不便です。シールの方が圧倒的に便利なのですが、シールの上に更に透明保護シールのようなものを貼らないと打つ回数が多いキーのシールがかすれたり剥がれたりしてしまいます。幸いシールは4セット分あるので何とかなってますが、なるべく早めに何とかしたいと思っています。会社では十分スペースがあるので両方のキーボードを付けて必要に応じて使い分けもできますが、今のところ勉強では手書きが多いのでそれほどネット環境は必要ではありません。

ロシア語はなにせ単語事の変化が大変多く、気が遠くなることしばしば。

ロシア語の習得が難しいと言われるのもよく分かります。それを独学でやっているのですからそれなりに大変であるはずですが、お金を掛けたくない、通学に時間をかけたくない場合はこのくらいのデメリットはあって然りでしょう。個人的には始めて独学で語学を習得するのはどんな感じか興味がありました。またロシアには良く行くと言うこともありますし、全く違った言語を勉強してみたいというのもあります。

週初めに新たな課の本文を見ると、毎回「今週中に覚えられるだろうか」と、暗澹たる気分になるのですが、大体金曜日になると言っていることも書いてあることも大体完全に理解できるようになります。毎日コツコツとやればこそ。語学に関して言えば急速に覚えるようになるとか、突然話せるようになるというのは基本かなり誇大広告の類です。私自身、日本語教師をしていたので分かりますが、多分どんな言語も習得能力は幾何学的に増えていきます。理由は簡単で、最初は何も分からなくても、分かったことを基にして新たなことを覚えていくので覚えられる量もしくは領域が増えていきます。ま、語学なのでできたら複数名で話せる様な環境もあればいいのですが、私の場合は取りあえずロシア人の友人には事欠かないのでそれは重要ではありません。

ごく簡単に言うと、語学ですからたくさん読んでたくさん書いてたくさん聞いてたくさん話す、語学は実践そのものであって厳密に言ったら学問ですらない。

暗記だけではだめだという論は一時期肯定してましたが、やはり最近見直すようになりました。江戸時代から戦前まで、寺小屋などで「素読」が行われていましたが、最近これの効果の素晴らしさに気付きました。学問というものは基本陽明学の「知行合一」であると思っています。知っていた行わないのでは意味がない。行われたことが体系化されて知識になったのであるから、それを基に行動せねば意味がない。うまく言えません。学問のための学問と見なせば暗記は確かに用をなさないことが多い。しかし実践のための学問であれば覚えることが悪いはずもなく。覚えたことを実践してみて、その摺り合わせた結果が本物の血と肉になります。学問と実践で得た整合性がその人の希少な財産になるはずです。

語学に関して言えば「他言語を」覚えるのではなく「他言語で」覚えるという感覚。パソコンを使うのではなく、パソコンで使う。パソコンが趣味なんて人は指向性のない暇人ですが、パソコンで写真を編集したり何かしらの学問をしたり起業したり、そういう使い方が正解です。私は覚えたロシア語でロシアにいる同門に日本の文化について語り合いたいと思っています。武芸や禅について色々情報発信したいと思っています。用途が明確です。あ、ロシアには私好みの女性も多いので、お近づきになれるかなとかも密かに期待してます(笑)。用途が明白であれば、応用も自分専用に利かせられます。テキスト通りにミーシャやサーシャがどこに行った、何かを食べた、ではなく、私がどうするというように置き換えたりします。本気で使うことを目的として学問を学ぶ意識さえあれば、暗記したことを基に応用を利かせられるなど造作もないことだと私は思います。

故に最初のとっかかり、初めは苦しくとも、それを過ぎたら面白く感じてくるはずです。あ、これはどの学問でも同じですかね。ましてやどんな言語でも世界のどこかで常用している人たちがたくさんいるのは間違いないのですから人智未踏の学問でもありません。そう思えば語学に関してはかなり気が楽になります。

最初にキリル文字を見たときは面食らいましたし、ロシア語の複雑な体系を知ったときは辞めようかとも思いました。巨岩を小さなタガネで少しずつ削っていく。最初はもどかしいでしょうが、あるところまで行くと思いもよらぬ巨岩がぼろっといったりして、習得のスピードは速くなりこそすれ遅くはなりません。理解度が上がればおもしろさも倍増です。そもそも人の一生は多かれ少なかれ学びの連続だと思っています。学ぶのは何もアタマに何か蓄えることではなく、蓄えてあったものを実践するのも学びだと思います。それならどちらもバランス良く知行合一するのがよいのではないかと思う次第です。

写真は今週覚えた課のコピー。週末になると紙はよれよれになる。

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平成二十六年葉月二十三日

不動庵 碧洲齋