不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

祖父の命日

そう言えば今日は母方の祖父が戦死した日でした。

昭和19年7月8日、サイパンに向けて最後の増援部隊を送る輸送船団の一員でした。

今となってはどの船に乗っていたのかも分かりません。

戦死した日を真面目に信じれば、この船団を守るため、サイパン島近海で撃沈された数隻の特設監視艇のうちの1隻になります。特設監視艇といえば名前はカッコイイですが、何のことはない、30トン足らずの漁船です。

ロマンを求めたのかなんなのか分かりませんが、7月7日に最後の総突撃を行い、組織的抵抗は終了しました。だから翌日戦死という風に一緒くたにされたのではないかとも思います。

そう考えると、5月末に横須賀を出て、6月頃に大半が撃沈されたサイパン島に向けた最後の輸送船団の輸送船乗組員だったとも思います。

竹内真一、享年31歳。妻と2人の娘、一番小さかった長男は赤子でした。母は次女で4歳でした。

それまでは浅草で下駄や草履の鼻緒を作っていました。元々は高崎の豪農の次男か三男でしたが、田畑を借りていた貧農の娘を見初めて、親の反対を押し切って2人で東京に駆け落ちしたとか。そして慎ましくも幸せな家庭はこの戦争でぶち壊されました。

母の話だと体がやや弱く、昭和19年になるまで招集されず、本人は残念がっていましたが、かといって決して軍国主義者でも何でもない、普通の市民だったそうです。そりゃそうです。国家危急存亡にあって周囲の人が出征しているのに、のうのうとしていたら普通に非国民です。良いとか悪いとかではなく、皆が懸命にしているときに、何もしないことに恥じる姿勢が日本人なのだと思います。私だって同じ立場だったら早く戦場に行かせてくれと頼みます。ただ、可愛い子供が3人もいたということは本当に辛かったことでしょう。私には1人しかいませんが、それでもかなり辛く思います。(戦場に行かないと言うことはまずありません。息子にもそう言ってあります)

私はこの祖父の顔も知りません。知っているのは彼の生き様だけです。

最近はやたらと気炎を吐いて、やれどこと一戦交えてやるとか、どこぞの国の奴らを追い払えだとか、日本人全体がバカになってしまったのではないかとすら思います。

その30年後、祖母がガンで病床についたとき、英語の勉強を始めて、母には子供たちには英語を学ばせ、世界中の人たちと話し合えるようにと言ったそうです。戦争が起きた原因は双方の国でよく話し合わなかったからだと結論づけたそうです。

私がインターネット上や現実に外国人たちと会って、何をするのかと言えば、まさにこれです。祖父の戦死を無駄にしたくないだけです。祖父や祖母たちの志を忠実に守っているだけです。

何が何でも戦争反対論者ではありませんから、どうしてもと言うなら戦場に行くことにやぶさかではありませんが、その瞬間まで市民として最大限ギリギリの努力をして戦争を回避したいと思います。祖父もそれを望んでいます。

世界中から武道を習いに外国人たちが来日して、中には神社やお寺で祈祷やお祓いを受ける者すらいます。私が信じている平和の一端がこれです。今のところ私が出来ることはほんの少しですが、多くの日本人にも十分できることだと私は信じています。

昨今、どうも日本周辺ではきな臭いことが多くありますが、日本人はどのような事態にも粛々と備え、かつ平和に対する信念をより深めたいところです。

平成二十六年文月八日

不動庵 碧洲齋