不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

愛情以前の問題だ!

私と息子は何かにつけてよく仏壇の前で手を合わせます。

よいことがあったとき、悪いことがあったとき、反省すべき事があったときなど。毎朝の読経以外にも月に何度か息子と座ります。

これを気に入らないとか洗脳教育だとか言われる向きもありますが、古来からの教育方法に照らし合わせれば神仏に手を合わせる以上に優れた教育方法は原始時代からあまり見ない気がします。

ある意味本物の無神論者は本当に怖い。

昨夜も息子と仏壇に手を合わせました。

それは厚木で父親のネグレクトのために餓死した5歳の男の子のため。

か細い声でそれでも「パパ、パパ」と訴えていたにも拘わらず放置され死んでしまったその子のために祈りました。

何年か前に大阪でも母親によってそんなことがありましたが、その時もしばらく腸が煮えくりかえるような気分でした。今回は私と同じ男親です。昨日などは勤務中、本気で殺気を撒き散らしていたかも知れません。

無念というか無慈悲というか、その子供たちの気持ちになったら本当に悲しくなります。何と言ったらいいのでしょう、この気持ちは。

仏壇では般若心経を唱えましたが、息子の前で涙を流してしまいました。その男の子は既に仏です。多分、安住の地にいるのだと思います。父親はこれからが地獄です。ずっと罪悪感に苛まれていたのでしょうが、これからが本当の地獄です。

本当のところ読経は別段彼らのためではないのです。この理不尽さ、無念さを感じている自分のためです。私の禅の師匠も言っていました。葬式は死んだ人の為ではなくて生き残って哀しみに混乱している人を整えるためにあるのだと言っていました。そう思います。

犬猫だって子供のためには命がけになるのに、どうして人は子殺し親殺しがこうも横行するのか。こればかりは人が知恵の実を食べてしまったからだと思わずにはいられません。本来そんな難しい事は無いはずです。より若き世代の生き延びさせる、愛情とは抜きにしてもこれは生物としてごく当たり前の事です。論理的とか哲学的とかではありません。これが自然の掟なのです。

結婚しない自由があったり、子供を作らない自由があったり、我欲のために子を殺し、親を殺す、これは全く以て自然の法則に反しています。これでは人類が滅びても文句は言えません。

多分私が小学校4.5年生ぐらいの時だったかと思いますが、母が何かの折に「もし地球が爆発して宇宙船で逃げられて、食べ物がなくなったら自分が死んでそれを子供に食べさせる」というようなことを言っていて、ちょっと怖く感じたことがあります。

しかし今はそれは限りなく空気のように当たり前のように感じています。子供の危機に際してはスッと無心で動けること、必要とあらば手足をサクッとためらいもなく切り落とせること、命すら惜しみなく子を守るという使命のために投げ出せるかどうか、毎日それを確認しています。

母親なら尚更、相手が戦車であって勝ち目など全くないと分かっていても、子を守るために身を挺して犠牲になることに1ミクロンのよどみすらなく事に当る、私の知る友人で母親の多くはそういう人が多いです。

行政も地域のコミュニティーも重要ですが、こういう事を未然に防ぐには親からの教育以外の何ものもないと思います。道徳的に非常に優れた政治的指導者や暖かい地域のコミュニティーはかなり助けにはなるのでしょうが、家庭内の親の行動規範ほどものをいう教育はありません。親たる者は毎日、死刑台の前に立たされているぐらいの気持ちで子供と接して欲しいところ。親の命なんて子供たちの未来に比べたら羽毛のように軽いのです。

愛情とかいう前に、他の動物が普通にしていることを、人も実践すべきではないかと、昨日は息子にグチっぽく語りました。

平成二十六年水無月十日

不動庵 碧洲齋