不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

日本の英語教育について

「英語の早期教育・社内公用語は百害あって一利なし」

渡部昇一

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先日、書店で渡部昇一先生の著書と言うことで衝動買いした本です。

私は今まで数冊、渡辺先生の著書を読んできましたが、どれもが何度も読み返してしまうほどの内容でした。ちなみに渡辺先生は英語学者ですが、歴史や文学、文化にも造詣が深く、かつおもしろい内容でした。

英語について、私は幼児教育はそれほど必要だとは思えない、重要度で言えば日本語や古典をもっと勉強すべき、その上での英語ありき、という持論を持っています。

これは

「英語を話す人」

「英語で話す人」

の差です。

ハッキリ言うと「将来はもっと国際的になって、外国人ともっと交流があるだろうから」「英語を話せれば世界中の人たちと話せるから」などというカルチャーレベルではどの言語であれ、その道に優れた人以外は使えるようになるのは難しいと考えています。これが私の考える「英語を話す人」です。

私は日常的に業務で英語を使います。また、門下の外国人は多分世界で50-60ヶ国以上にはなると思いますが、彼らに日本の歴史、文化、習慣、宗教、武道哲学、何故、どうして、彼らが知りたいこと、疑問に思うことなど、これらを最近ではフェイスブックや直接語り合って伝えます。

英語を話す前にそれを使って何をするのか明確でないと、多分習得の速さが変わってくると思います。私は以前日本語教師をしていました。非常勤も合わせて約7年間ぐらいでしたでしょうか。日本語学習者たちの目はギラギラしている人が多い。日本人の英語学習者たちの気迫などはお遊びみたいなものと言って差し支えないほど。海外では趣味や興味で他言語を学ぶ人は少ないのです。

正しい日本語、日本についての知識など、一通り学んでからでも遅くはないと言うことですが、私もそう思います。「子供の頃は神童、大人になったらただの人」これは多分合っていると思います。渡辺教授も幼児学習をした人とそうでない人の差は大人になるとその差はほとんどないと述べられていましたが、これは事実だと思います。私自身も日本語を教えていましたが、教え方さえよければ年齢はあまり関係が無かった気がします。

この本を読んだ後に息子に質問しました。

「お前は、英語を使って将来何をしているか、明確なイメージを持っているか?」

息子はハッキリとうなずきました。

「もちろん、留学して宇宙飛行士を目指している時はずっと英語なんだよね。」

これです。これが有るのと無いのとではかなり違います。

渡辺教授はこう主張しています。

「近年、早く会話が出来るようなメソッドは、いわゆるちょっとした会話、カジュアルな利用には便利だが、学術的な利用では役に立たない。」

文部科学省で間もなく施行される小学校低学年英語教育に対して、そこまで早期からしなくてはならない理由があるのか、その割には学ぶレベルが国際交流がどうだとか、英語に慣れさせるためだとか、どう考えても重要性が見いだせないと主張しています。私も今息子が受けている授業の内容を聞く限り、とても時間を割いてまでやるほどのものではないと感じます。それとも公立校にいるALTのレベルでは無理なのか?

渡辺教授も述べていますが、日本人が留学して英語に関して二つ驚かされることがあります。一つは(例えば高卒後に留学した場合)「6年も英語を勉強していて、ほとんど話せないこと。」と「読み書きは他国の生徒を圧倒する程の出来映え」。多くの国からやってきた留学生たちは多くが陽気で騒がしい。よほど内気な学生以外は皆、下手な英語で楽しく会話をします。(私もその口でした)一方、読み書きに関しては大したレベルではありませんでしたが、ルームメイトの米国人に文章の添削をお願いしたところ、お願いしなかった方がよく出来ていたなんて事が何度もありました。スペルミスなんて日常茶飯事。日本人の「英語ができない」とは「英会話が苦手」というだけで、語学における「聞く、話す、読む、書く」のうち2つは少なくとも水準以上です。私が思うに日本人があまり話さないのは読み書きレベルでないと会話しても相手に伝わらないのではないかという気持ちが働くのだと思います。ま、失敗を恐れずに話すという姿勢は重要ですね。

学術的な知識を取り入れて翻訳する、日本人は世界的にもこれに長けているにも拘わらず、意外にもそれを軽視しがちだと、教授は述べています。古くは中国から知識を輸入していましたが、その時も原典が読み書きできるほどに理解する知識層が多くありました。それは明治時代になって対象が西洋になっても同じ事。やはりその筋の優秀さでは日本人はピカイチと言っていいらしいです。

私の経験ではネイティブのような発音をして話せるように慣れる人はかなり限られます。しかしそこまでのレベルでなくとも言語というものは通じるものです。それはお互いが人間であり、会話なり対話をする以上は何らかの補正や推測が利くからです。これは私の経験から言っても間違いありません。ある程度の会話が出来るレベルでありさえすればよいのです。私だってかなり限られた能力で武道について、仏教について、禅について、宗教観、伝統文化、歴史などについて、なけなしの能力を最大限駆使して語ったり書いたりしていますが一応ちゃんと伝わっています。後で見てみたら文法的に間違ったりしているので修正したりします(フェイスブックとか)。このレベルでも話さないよりは話した方がよいと考えます。

息子にはペラペラとシャベる英語を話して欲しくありません。そういう軽薄なのはホンモノの文化交流には要らない。私の経験でもタダの会話は所詮タダの会話です。例えば私の武道観、私の宗教観、日本伝統の慣習と私の生き方、これらを堂々と話してから急に親しくなった友人はとても多い。

私の世代と違って子供の数が格段に減って、しかもそれを育てている親にも多分に問題がある昨今、ひとりひとりの子供を日本人として恥ずかしくないように育てていきたいところ。尽きることのない泉のように言うべき智慧や知識が湧き出し、その一筋を英語なり他国の言語なりに変えられるような教育にしていきたいと思います。

平成二十六年水無月三十日

不動庵 碧洲齋