不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

最近、我が家で流行の「不垢不浄」

週末に掃除をした折、流しの生ゴミかごを息子が見て「うぇっ、気持ち悪い」と言いました。私は「そういうことを言ってはいけない。森羅万象『不垢不浄』なのだから。」と言うと、息子も納得したように「ああ、そうか、世の中は全部『不垢不浄』なんだよね。」と言って反省しました。

昨夜も風呂に入ったとき、風呂の水面に浮いていた髪の毛やゴミを見て「これも『不垢不浄』なんだよね。」と息子が言いました。「そうだな。」と返事をしつつ、私はおかしくなりました。

よく考えたらそもそも10歳の子供がその意味を理解していること事態、あまり普通ではない(笑)。息子はその言葉が般若心経の一節で、「この世の中のものは汚いものもきれいなものもない」という意味をちゃんと理解しています。その根拠は世の中のもの全てが仏だからだという事も良く知っています。そしてそれらは仏のごく一面を指しているに過ぎないと言うことも分かっているようです。

そう考えるとおかしくなってつい笑ってしまいました。

きれいだけの世界には「きれい」の概念は確立できません。同じように汚いだけの世界には「汚い」の概念は、やはり確立しません。

昨日のブログでは「スバラシキ右だけの世界」とか「極楽左だけの世界」というものはあり得ないと書きましたが、同じ事です。息子にはコインの表裏ではなくコインそのものを見る力を以て欲しいと願っています。大人になると囚われが多くなり、視野が狭くなったり視界が悪くなったりするものです。うまく言えませんが、見えるものだけしか見えなくなってくる。子供は違うものだと想像します。

本質を観る眼を養うことによって、よくマスコミなどで喧伝されるような一片の現象や事実、もしくは根も葉もない噂に右往左往するようなことがなくなるのではないかと思い、子供の教育と自分の修養に努めています。

平成二十六年卯月二日

不動庵 碧洲齋