不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

そのものを見よ

あらゆる生物はひとつの事象に対して必ず本能的に何らかの判断を下します。

生物で有る限りは判断という行為をしないことはないと思います。

下等生物なら取りあえず「食べられるか食べられないか」。

ちょっとレベルが上がって「危険か危険ではないか」。

更に上がると「相手は敵か味方か」。

どの生き物でもあるのが「配偶者たり得るかどうか」(笑)。

などなど。

何か事を起こすに当って、そういう判断は必須ですが、人間の場合、厄介なことにイヌネコがする純粋な判断とは大きく異なり、事実に基づかなかったり私見が入ったり感情に左右されたりと、どうにも頼りない判断が多い。そしてその上に妄想などがカミされると目も当てられない。

人間が持っているものの見方で、最近少々食傷気味なのが以下に挙げる3つ。

視点「上下」

カネや資産を持っているか持っていないか。社会的地位が上か下か。年齢が上か下か。階級が上か下か。洋の東西を問わず、この物差しで測ろうとする人はまずは卑しいと思われてしまいますが、本当にこれで計らない人は少ないし希少です。この物差しに囚われない人は高貴ですらあります。

軍人、警察などの"官"係各者に比較的多いような気がします。

何年か前に某国の特殊部隊の軍人さんと稽古をしましたが、入ってくるなり鬼軍曹みたいな態度で私に手ほどきをし始めました(苦笑)。私は黙って彼の段位相応の技量による指南に従っていましたが、後で彼の友人が慌てて入ってきて注意しました。特殊部隊の彼はようやく自分の態度に気付きましたが、相手の技量に気付かなかったり、その国の作法に注意を払わないようでは特殊部隊の資質としてどうなんですかねぇ、とやんわり言ったらシュンとなってしまいました。

犬や狼は序列をすぐ見抜く能力があるそうです。

視点「前後」

最近は男でも多いのでウンザリさせられますが、私が知り限りはやはり女性に多いこのタイプ。「だから言ったのに!」「ほら、やっぱり言ったとおりでしょう!」などなど。過ぎたことを後悔したり、まだ起きてもないことに色々言上仕ったりと、我が禅定を深まらせるにはもってこいの視点です(苦笑)。忍耐の限度を上回ったときが見照のチャンスです!と皮肉の二つ三つを言いたくなることしばしばです。ある程度準備はすべきですが、過ぎたことをいつまでも悔やんだり文句を言ったり悲嘆したりケチを付けても1ミクロンも動きません。「タラ・レバ・カモ」は食べ物以外には存在しない、と考えるのが健全です。最近なるほどと感心させられた言葉があります。それは「減災」というコンセプト。何が何でも全部防ぐというのは膨大な予算と壮大すぎるプロジェクトになりますが、ある程度、災害を軽減させるという考えは現実的です。被害を受ける人、死ぬ人もいるでしょうが、人間本来の本能を駆使せずして緊急事態にのうのうと生き残ろうというのは虫のいい話です。社会的弱者とインフラでネックになっているところなどはサポートするにしても、それ以外はある程度自助努力で何とかするというのは正しいことだと思います。7割とか8割主義というのは人を前に進めやすくさせるのではないかと思います。

視点「左右」

私の知り合いにも何人かいますが、何かにつけて「右」とか「左」とかで色分けするタイプ。時々これには閉口させられます。私が生まれ育って世代は明らかにとても左寄りであったことは間違いありません。海外に行って日本人がものすごく左に舵を切っていたことに唖然としたことがあります。

では右がいいのかといえば差に非ず。当たり前です。右にしか曲がらないハンドルで運転できる人などいない。左右の舵加減で事が進みます。左の人は右を激しく非難しますし、右の方は左を激しく非難します。どちらも相手がいなければ世界がどれほど平和になるかと真剣に妄想している点。私から言わせれば両極端ほど悪いものはない。

日本人などは割にそういうバランスに優れているように思っていますが、どうもそのバランス感覚は危ういものがなきにしもあらず。欧米人の方が泰然としているように思うことがあります。

民主政治的なものの見方という点では、残念ながら日本人はまだ熟成とはいささか言いがたい気がします。

左がない右、前がない後ろ、上がない下は存在し得ません。何故ならいずれも相対的な概念に他ならないからです。単独では存在できないのです。スバラシキ右だけの世界、とか、極楽左だけの世界なんてないのです。悔しいですがセレブは確かにいますが、セレブだけではセレブになれません。金持ちの皆が幸せでもなし、貧乏の全てが不幸でもないと言うこと。過去だけの人、未来だけの人もいません。

もっともっと大事なこと。右も左も基準となる、もしくは起点となるそのものがあってこその左右があること。上下も前後も同じです。禅をやるようになってから霧が晴れてきたかのように気付いてきましたが、多くの場合、私たちは「そのもの」を見ていないことが多い。

何かおいしいものを食べます。それで本当にそれを「おいしい」と思ってますか?大抵は食べる前に値踏みして、食べたら過去の経験を引っ張り出してきて比較して「うまい」と言ってませんか?本当のおいしさは値踏みも経験値もない「うまい」ではないかと思います。

花はどれも大抵美しい。しかし桜がバラよりも美しいという比較はあまりありません。どちらの美しさも相対的なものではなくて、唯一の絶対的な美しさがあるからです。タンポポの花も温室の花も同様に美しいのはそういう理由だからではないでしょうか。

その昔、グランドキャニオンに行ったことがあります。夜中ずっと車内で寝ていて、起こされてから見た景色は今でもよく覚えています。そこには比較もなく、想像を遙かに絶した景色がありました。唯一無二の景色です。

唯一無二の景色はグランドキャニオンだけではありません。毎年咲く桜のある風景、自分の息子が楽しそうに何かをしている風景、何でもない風景さえも全部がたった一度しかない、唯一無二、絶対的な現象だと思います。

それを自分の持てる物差しで測ったり評を下したり、無粋なことでその一度しかない大切な現象を台無しにしたくないというのが私の想いです。私の知り合いにも一日何度も不平、不満、ケチ、グチ、皮肉を言わないと気が済まない人がいますが、そういう人は両手にたくさんの物差しを抱えて計るので精一杯、そのものを見る余裕がない人だと言えます。

上も下も右も左も前も後ろも「そのもの」あっての概念です。「そのもの」をよく見て善く想ってこその上下前後左右であればこそ、それらが活きるというものです。

最近想うことでした。

平成二十六年卯月朔日

不動庵 碧洲齋