不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

悲しいことが起る予感・・・

「今日はなんか悲しいことが起る予感がする・・・」昨日の朝、息子がぼそりとそう呟いたためぎょっとして、思わず数珠と経本を持って出掛けたのですが、昨日は一日中そのことについて考えていました。

この件に対する解が出たのは帰路、都内に用事がありそれを済ませてから電車とバスを乗り継ぎ、バス停で降りたとき。ハッと気付きました。そうか、そういうことだったのか・・・。あまりの恥ずかしさに赤面しました。

帰宅すると息子は居間で勉強をしていました。

さっそく息子に試問してみました。

「朝、今日はなんか悲しいことが起る予感がする、って言っていたけどさ、俺には何も起らなかった。」

「ふうん、よかったじゃん。」

「でも悲しいことは何も起らなかったのかな?」

息子は少し考えてからこともなげに言いました。

「世界中で悲しいことは毎日、起きているよね。」

そう、私が考えていたこともこれでした。

さすがというか何と言うか、息子の答えには少々感心してしまいました。

「不幸が起きる」普通は皆、自分の身に何か起きると思います。そして何もなければ「今日一日、無事に終えることができた」と胸をなで下ろします。

世界規模で俯瞰したら悲しい事件は毎日起きています。罪もない子供が何千人も殺されていますし、死ななくとも何万という子供が飢えています。基本的であるはずの水ですらまともに飲めず、家もない、もしかしたら親もいない子供だっています。

「私」の物差しは人をエゴイストにします。誰もが大抵、自分ありきでものごとを推し量り勘定します。だから家の中が安泰なら世界中が安泰だと錯覚しがちです。自分が健康だったら世界中も健康だと勘違いします。私たちの精神はそういう狭いものに囚われがちです。そしてそれを外したとき、地球の裏側にある不幸も、同じく地球の裏側にある幸福も我が事のように感じられるものです。そういうリミッターを外せる人はどの国でも賞賛されるべき人であり、古来より優れた人であることが多いものです。

自分を外して考える、これは日々禅の修行でやっていたはずのことでしたが、こういう単純な問いかけにまんまと引っかかる辺り、自分の未熟さを思い知らされます。

そういうことで今朝は息子と二人で仏壇に手を合わせ、「今日もいるであろう、悲しいことが起る人たち」のために祈りました。

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平成二十六年如月二十八日

不動庵 碧洲齋