不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

平常心のこと

禅宗公案にこういうものがあります。

趙州問「如何なるか是道」 

南泉曰「平常心是道」

趙州和尚が「仏道とは何ですか?」

という問いに対して、南泉和尚は

「平常心がそれだ」と返しています。

一般的には「へいじょうしん」と読みますが、禅では「ビョウジョウシン」と読まれています。

「平常心」は日常的によく使われる言葉ですね。

「平常心」はどんなイメージでしょうか。

多分、一般的には「平常心」は大波小波と何か事ある度に波立つ心を止水明鏡の如く、常に平らかなるようにすることと考えると思います。止水明鏡の境地では心が何一つ歪みなく事象を映し出す、そういうイメージだと思われています。

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もちろんイメージとしての止水明鏡は正しいのですが、現実問題としてそういう環境や場所、心理的状況はどれほどあるのでしょうか。

森の奥、鳥の鳴声以外は静謐が守られている深山の古刹名刹

しんと静まりかえった自宅の和室。

そんな場所があったら本当に嬉しいところですが、そういう場所は滅多にありません。

例えあっても身近にある人は希です。

私自身、通っている二つの寺のうち、一つは大きな寺である程度は静かですが、それでも車の音は少しします。もう一つは逆に都心ですが、小さい寺で住宅街の中なので意外に静かですが、静謐にはほど遠く。

唯一、はじめて禅の手ほどきを受けた群馬の山奥の古刹は完璧な環境でしたが、今まさに大雪に埋もれて大変な場所にあります。

私たちの肉体は日々「動いて」います。

髪の毛や爪は言うに及ばず、皮膚組織や筋肉組織、骨に至るまで1年もあれば必ず新しいものと入れ替わるそうです。死体以外の細胞は毎日活発に動いて、この小さな体の中で毎日、毎秒生死を繰り広げています。これはインドの山奥で苦行している行者さんも禅のお坊さんも路上生活者も皆同じ。されば「我」とは一体なんぞや?

体内、脳内の神経細胞は絶えず電気信号を送っています。脳内だったら寝ていても何百億もの電気信号が流れているわけです。坐禅していてもそれは同じ。そもそも坐禅していても呼吸はします。

1,675 km/h

約10万 km/h

この数字は何だか分かりますか?

実は上は地球の自転速度、下は地球の公転速度です。

私たちは時速1,675 km/hの球の上に在ってグルグル回され、その球は太陽の周りを時速10万キロでぶっ飛んでいます。そして太陽系もぐるぐるコマのようにぶっ飛びながら銀河系の中心から少しずつ離れています。

だから止静している場合であっても、ぐるぐるマッハ超の速度で回っていて、更に10万キロでぶっ飛び、しかも銀河系からどんどん離れています。

深山の古刹に石のように端座する坊さんがいても、間違いなく上記の如く、漆黒の大宇宙を斯くの如く「ぶっ飛んで」いるのは間違いありません。

夜空に見える全ての星がそうです。止まっている星などありません。

森羅万象、動いていないものはありません。

だから考えようによっては人の心が動いている動いていないなどという命題は、大宇宙からすれば素粒子に付いた傷にもなりません(笑)。

禅定の深いところになると確かに静けさがあります。禅定の深いところなどとエラそうに言うと、本職の方々から叱られそうですが、取りあえず私の感覚として。

不安や恐れ、怒りに心が揺れます。そしてすぐ、私たちは顧みます。「もっと冷静にならねば」「大丈夫だ」「怒りは恥ずかしい感情だ」「何とか解決しよう」色々な感情が渦巻きます。言ってみれば池に立った波を消そうと、結果もっと波を立ててしまいます。

禅の言う平常心は「常に平らかなる心」ではありません。

「その事象に成り切る」ことです。

私たちの不安は起きたことそのものにはありません。

起きてしまったことを未来予測したり過去検索をして不安になるのです。

今と過去や未来とを比較検討するから不安になります。

過去は全く動きません。世界中の核兵器をかき集めて一気に爆発させても、過ぎてしまった過去の事象は1ミクロンも動きません。SFのタイムマシーンでもない限りそれは叶わぬ願いであることを私たちは良く知っています。

未来も同じように見えません。見えていると錯覚するのは予測がたまたま当っているからです。完全に未来が見えたらさぞやつまらない人生だろうと思いますが、私たち人類の叡智はその見えぬ未来を切り抜けることに極意を見出しています。

ま、それが悪いと言うことではもちろんありませんが。

仏教の智慧は「分け隔てない」智慧です。無分別智とも言われています。

何を分け隔てないかというと、事象と自分を分け隔てないと言うことです。

事象を相対的に見ないと言うことです。

事象があります。例えば恥ずかしいハプニングだとします。

恥ずかしさのあまり舞い上がった自分を制御しようという自分がいます。

起きてしまったことは起きてしまったこととして、為すがままにと叫ぶ自分がいます。

ニンジャみたいに空気の如く無になろう、無に徹しようと必死になる自分がいます。

私たちの「悩み」は「悩み」そのものではなく、実際に起きてしまったその事象と揺れる自分の心との幅、その狭い幅を慌ただしく行ったり来たりしてしまう苦しみではないかと思います。

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それをその事象そのものにぴたっと寄り添い合わせる。事象そのものに成り切る。私の理解ではこれが禅で言うところの平常心ではないかと思います。その事象に寄り添い合い切っていたら、それがそうであることには気付きません。私たちが地球の自転速度や公転速度を感じないようなものかも知れません。

宇宙に行けば、地球が猛回転している事を知ることがあります。一旦地球の自転を離れた人間にとって、地球の周りを回っているゴミ、デブリは大変な脅威です。それこそ時速何万キロとかで飛んでいますから、戦場の最前線に立たされているようなものです。

師匠はよく電車に例えます。

電車に乗っていれば、電車自体は見えず、景色も流れる。しかし一度一つの景色を見たいと思って駅を降りたら電車はとても速いことが分かる。一つのことに引っかかった状態がまさにそんな感じだと。

事象と自分を一つに合わせるなんて無理だと思うかも知れません。

こんな風に考えてみては如何でしょう。

世界には70億からの人間がいると言われていますが、あなただけ他の人と違っていることがあります。

それはあなただけが自分自身を直接その目で見ることが出来ないと言うことです。肉眼で自分の顔を見ることは出来ません。その代わりそれ以外のありとあらゆる人を観ることが出来ます。

あなただけがあなたをすることができます。しかし他のどんな人もあなたをすることができません。

だから我彼を比べることは、重さと高さを比べる愚のように思います。

自分を自分だと思わせているものは誰かがあなたをそう呼び、自分を認証させるなにがしかのモノがあるからです。

自分が本当にあると思わなければ、事象と一つになることはそう難しい事ではないのかも知れません。

世のことは自分を勘定に入れて計算するからうまく行かない、と師がよく言います。YAHOO知恵袋を読んでいると、本当に自我がなければ何のことはない問題が多いのにとよく思います。

確かにお釈迦様イエス様も自分を空しゅうして民のために奔走しました。他の偉人と呼ばれた人たち皆がそうです。

常に平らというのは傍から見たら定規で引いたまっすぐな線のような状態を指しますが、事象に成り切った場合は対象を無くし、一つになるという状態になる、毎日そう思って坐っています。

平成二十六年如月二十一日

不動庵 碧洲齋