不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

父の命日

今日は父の誕生日、父は誕生日の一日前に他界したので、つまり昨日は父の命日でした。7年前の今日、他界したことになります。

7年も過ぎたのかと思いますが、それが早いのか遅いのか。

私が禅に本格的に打ち込み始めたのもこの年の秋頃。今の進み具合からするとやはり走馬燈の早さのような気がします。

心筋梗塞で急逝したのが私がドイツからの出張で帰国したその日、時差ぼけや疲れで今なお、何か現実感を欠いた当日の記憶があります。

最近は息子の自主学習のネタが尽きてきて、昨日はとうとう「お釈迦様について」になりました(笑)。先日「ブッダ2」を観に行ったこともあります。

息子のその宿題を手伝っているうちに父の命日であることに気付きました。

基本毎日、朝は読経して、夜は少なくとも1柱は坐っているので、個人的にはそれが先祖への供養であると思い、私は改めて命日を数えたりしません。

子供が生まれてから、特に父が死んでからは父だったらどう思うだろう、父だったらどう言うだろうと、たまに考えます。後になって考えるほど実は父は偉大だったと再発見させられます。

東京日本橋に数百坪の大きな店を持つ家の六男として昭和10年に生まれました。男7人女2人の兄弟でした。家は今で言う茶箱を主に作って成功した家のようです。戦前から車やトラックも所有して、子供ひとりひとりにメイドさんがついていたとか(笑)。うらやましい限り。戦時中は空襲が始まる前に幕張にあった500坪の別荘に引っ越し、以後独立するまでそこで育ちました。

終戦時、父は今の息子と同じ10歳だったことになります。時々終戦時の感想を聞きましたが、野球少年だった父には、進駐軍の兵士らと親善試合をして当時珍しかったコカコーラがうまかったとよく話していました。

父以外の男兄弟は皆、大学まで行きましたが、どういうわけか父は大学には行きませんでした。父の高校生の時の成績表を見たことがあります。非常に優秀でした。そして何と言ってもお金持ちの家庭。行こうと思えば普通に行けたはずです。何度も理由を聞きましたがあまり勉強が好きではなかったとか色々言っていましたが、結局よく分かりませんでした。

よりによって高校卒業後に行った先は「自衛隊」。「保安隊」から「自衛隊」に名称が変わったその年に入隊しました。当時は海のものとも山のものともつかぬ組織に入隊しました。当時父は珍しくちゃんと自動車運転免許証を所有していたので、連隊長の送迎を任されたそうです。当時、中隊に3人ぐらいしか免許証を持っている人はいなかったそうです。父は免許証を持っていたため、重いものがある重火器中隊に配属されました。父がバズーカ砲や迫撃砲重機関銃を持ったり運んだりしている写真があります。当時米軍から払い下げられたM4シャーマン戦車の上で富士山をバックに撮影された写真もありました。

自衛隊は2年で除隊、その後、映画会社の東映に入社しました。配属先は教育映画部。学校で交通安全や部落差別について啓発をする映画の製作でした。

昭和38年頃だったか、台東区清川町辺りで映画のロケをしていた折、お茶を振る舞っていた女性に一目惚れ、それが母でした。清川町と言えばいわゆるサンヤと呼ばれたような非常に貧しい人たちが住んでいた地域で、今なお昼間でも路上に人が寝ていたり、酔っ払っている人を見かけます。母は非常に貧しい家庭でした。

母方の祖母からは遊ばれていると思われたのかバケツの水をぶっかけられたり、ホースの水をかけられたりしましたが、39年にめでたく結婚しました。

私はどちらの祖父を知りません。母方の祖父はサイパン増援部隊の輸送船団の乗組員として戦死しました。父方の祖父は私が生まれる前に他界しました。父方の祖父は東条英機元首相とも親交があったようで、終戦時まで東条さんの揮毫がたくさんあったらしいのですが、進駐軍が来たときに全部焼き捨ててしまったそうです。何とももったいないことを。

父方の祖父がどんな人だったのか、推測させる事が幾つかあります。

非常に商才のある方でした。出身は江戸川区ですが、当時東京の一等地である日本橋に土地を買って、何十人もの使用人を雇い、幕張に別荘を持てるほどでした。

父の家はお金持ちでしたが、我が家に残されているのははった一つの掛け軸(笑)。明治大正昭和初期に活躍した有名な書道家に書かれたもののようで、書かれている内容は「教育勅語」。かけてあったのは前からでしたが、それが教育勅語であることに気付いたのは私が結婚する前後だったと思います。そういうものが重要であるという考えだったのだと思います。

男兄弟が皆大学に行っているのに、当時としては戦争が終わったばかり、得体の知れない自衛隊などに入隊するという父を認めた柔軟性。

当時は貧乏人しか住んでいなかったサンヤの娘と結婚することも認めた寛容さ。

親類は皆、私と違って皇室の方々のように品が良い方が非常に多いです(苦笑)。

この手がかりから考えると、祖父もかなりの人物ではなかったかと思います。その祖父を頂いた父もやはり、何か思い返すと非凡な部分があったように思います。

父は毎日1箱以上、ショートホープを吸っていた、ヘビースモーカーでしたが、定年退職後ピタリと止めました。最初の半年は少し体調が悪そうでしたが、それでもピタリと止めた辺り、意志の強さが窺われます。

定年退職後はよく家事もやりました。母は仕事の他、社交ダンスなどもやっていたので実に多忙でしたから家事をよくやっていましたが、目を悪くしていたので昔のように本をよく読むことも出来ず。

母がガンで余命半年と宣告された折は、それでも黙々と通院し続けました。母が死んだ時は涙したとは言え、翌日からは普通に家事をしていたのを見て、心底敬意を持ちました。平凡なことを徹底する。今私が四苦八苦してやっていることです。以後、酒の量がやや増えた以外は別段何もなく、約1年に私が結婚して、その2年後に息子が生まれ実家に戻ると嬉しそうにしていたのが、人生でほぼ唯一の親孝行ではなかったかと思います。

そういう後悔も手伝って、息子は私が10歳だった頃に比べると、比べるのも失礼なくらいよくできた性格です。勉強は言うに及ばず、人の生死、人の生きる意義、神とは、仏とは、お釈迦様が直面した生老病死の命題にまっすぐに切り込んでいます。私が40近くになって始めて手を付けたようなことを、息子は既にがっしりと掴み取りかかっています。大人になれば、もっと智慧の深い人間になっていくことだと思います。それが死んだ親への恩返しになるのかどうかは分かりませんが。

今週末は墓参りに行こう・・・。

平成二十六年如月十八日

不動庵 碧洲齋