不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

射は皮を主とせず

今朝も元気に(苦笑)自転車で11キロを走破して坐禅会に参りました。

毎年1月2月が一番辛い時機ですが、今朝は2.3度もあり、出立時にジャンパーの代わりに着ていたジャージすら、途中で脱ぐほどに暖かかった。坐禅中は少しでも汗を掻いていると寒くなるので、冬は汗を掻かないように注意します。

坐禅はもう好きとか嫌いとかではなく、日常の一環となっています。その点は武道と同じです。

内観する、それだけの時間というものをどれだけ持っていますか?意外にこれを持っている人は少ないと思います。こういう希少な時間を持てることは有難くもあります。

今日からルートを変えて川沿いを走ることにしました。信号は少ないし景色もいい。とはいえ往路はまだ真っ暗ですが。

自転車で3回目ともなると、全然苦にもならず。重歳してもこの程度はまだ十分に順応が出来るのかと内心ニンマリしてしまいました。

座禅堂に席順や指定席はありませんが、古参が坐るところは大抵決まっています。私の場合は入口すぐ右側。向かいは木魚を叩く雲水さん、同じ列の反対側に老師が坐ります。

今日も人が多かった。初心者の方も1.2名ほど。

若い人は少ない。皆、中年とかそれ以上の方が多いように思います。若い人には悩みがないのか、悩みが浅いのか。若い人はもう少し死ぬほど悩んで欲しいと思います。まあ、禅で何とかなるというものでもありませんが。

開始30分前に坐って、1柱目まで計1時間坐りますが、この時間が一番集中できます。

2柱前の休憩時間は座禅堂の周りを歩いて足のしびれをほぐしますが、しびれることはなく、集中力を研ぎ澄ますためのウォーミングアップのようなものです。

2柱目に警策が行われますが、最近はあまり受けません。集中したいからというのがあります。要らなくなってきた、というのでしょうか。

読経では般若心経と白隠禅師和讃を読むのですが、特別なことがない限りは大抵暗唱します。慣れると他のことを考えながら、簡単な計算をしながらでも読むことが出来ます。しかし今日は白隠禅師和讃、チト読み間違えてしまった。(苦笑) 滅多に間違えないのでハズかった。ちなみに基本は暗唱できても経典を開くのが正式です。自転車にしてから荷物を減らしたかっただけです。(でも使わない数珠はちゃんと持ってくるし・笑)

提唱が終わり、茶礼。最近の提唱のポジションは老師から見てすぐ右隣!初めてここに来たときはずーーーっと後ろだったのですが、6年ちょっとで一番前まで来てしまいました。他に古参はいますよ。ただ参加率とか雰囲気とかでどんどん前になってしまってきたようです。私以外の古参などは私の父といくらも変わらぬ年齢です。隣に座っていても老師に気安く声はかけにくいので、提唱が終わり茶礼になるとささっと席を立って、新参の頃から率先してやっているお茶を入れてます。最近は抹茶立てをやらされてますが、そもそも茶道などやったことないし、人数が人数なので手が痛くなります。しかし多分古参では一番若いから任されたのだと思います。少々練習をせねばならないかな。カミさんに教えてもらおう。

珍しく老師が声をかけてくれました。

参加して3年ぐらいはほとんど無視されてましたが、今はちゃんと名前で呼んでくれます。

石の上にも三年とは本当ですね。老師は私が一生懸命研鑽しているのを見てくださっています。

嬉しくも有難い限りです。

「碧洲齋君、君は節分はどこかに行くのかな?」

「いえ、家で家族とやります。」

そこからですが、寺では普通節分はやらないものの、僧堂ではやるそうです。これはおもしろかった。

お腹の空いた雲水さんたちには豆はごちそうだろうと思います。

帰路、この寺の檀家で文武共に秀でた古参と話す機会がありました。

Tさんは居合や弓道もしているのですが、Tさんがなにげに言った言葉が心に残りました。

「学生たちは皆、グラスファイバー製の弓を使うから、使い勝手がいいしよく当る。でも俺ぐらいの歳になると命中するとか、そういうものじゃないんだよなぁ。何と言うか、気合いというか意気込みを見せるというような、そういうためなんだよなぁ。」

10年ぐらい前だったらニヒルに笑って「何言ってやがる、それはちゃんと百発百中になってから言え」とか言ったかも知れませんが・・・今はこのT先輩の言わんとするところがよく分かります。んー正直分かりたくないんですが、どうしても若者側よりはこの意見の側になってしまう自分が何とも哀しい。もう若者側じゃないんだな、と普通に感じてしまいました。(笑)

論語にこういう言葉があります。

「射は皮を主とせず」

古来から色々と解釈されていますが、一番よく用いられているのは

射撃競技では命中させることよりも礼儀を重んじる」です。

孔子が弓矢に秀でていたかは分かりませんが、戦乱の世で敢てそういうことを言ってのけた気概にも、また後世の日本の武士道にも通じる哲学を残した辺り、高く評価されます。

Tさんが弓矢の話をしたとき、ふとこの一節を思い出しました。

若い内はこういう事を理解する必要はありません。

逆にどんどん刃向かってください。

若くして老成したらロクな人間になりませんから。

あるとき何かのきっかけでふと変わる瞬間があります。またそれに気付かないかも知れませんが。

「弓を理解」するから「弓で理解する」そういう時期が必ず来ます。

来なかった人はもしかしたら方法が悪かったのかも。弓でなくとも何でもよいのです。ただ伝統芸能の道具の方が奥が深いことはしばしばあります。

人生の折り返し地点を過ぎると、どうあがいても若者側じゃないのかぁ(苦笑)。まあ、これは仕方がない、まずは気持ちだけでも若さを保とう。

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今朝の座禅堂

平成二十六年如月二日

不動庵 碧洲齋