不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

心の解放

車を手放してから9日が過ぎますが、一番ショックだったのはあまり不便さを感じないこと。食料の買い物は生協で代替が利きます。少々の買い物なら通勤途中でも十分。そもそも通勤時間自体が短い。大きな買い物でも実はホームセンターは自宅から徒歩5分のところにあります。

ガソリンの価格に気を揉むことはありません。車をぶつける心配もなし。整備維持に気を取られることもなければ人を轢く心配もありません。自分が命の危険にさらされる可能性もぐっと減ります。何と言っても自然に反する速度に身を置く時間が大幅に減ったのですから当たり前です。

体がこんなに歩くことを欲していたのかと、驚かされます。片道3キロぐらいなら普通に歩きます。前なら確実に自転車です。週末は往復22キロを自転車で走りました。自力で今年も全ての坐禅会に出られたら本当に大したものだと、自分で思います。足腰を鍛えることが、今の自分がクリアしようと思っている課題に一番の近道です。

その昔、大東亜戦争時に、かのエースパイロット、坂井三郎零戦に乗って2-3000メートルくらいの高度と基地にいるとき両方で同じ数学の問題を解く実験をしたと言います。機上にあったときはどうしても解けなかった問題が、地上では楽に解けたそうです。3000メートルだと酸素の問題もあったのでしょうが、本人曰く、やはり機体を正常に稼働させることに対して潜在意識の内ではかなりの部分の心を裂いているのではないかと言っていました。私はこの記述に非常に興味を持ちました。

つまり物持ちは潜在意識下で相当、持っているものに心を裂いています。現代に悟りを得た人が少ない理由もこれではないかと思います。昔は歩きました。だから周囲の景色は自分が見て理解して処理できる範囲での動きでした。しかし現代では数百キロもの速度で動く乗り物に乗っていますから、基本景色は見ることが出来ないし、見えても歩くよりは深い認識を得られない。つまり自分の認識が届かない速度で我が身が勝手に遠くに運ばれているという状態です。

禅僧が最低限の荷物しか持たなかった理由は、なるべく閃きやすい環境を整えていたこともあるのではないかと思います。北朝鮮の元女スパイ、金賢姫回顧録でこんな事を言っていました。北朝鮮では日々が非常に単調で楽しみも少なかったので、過去のいつにどんなことがあったのか、非常に覚えやすい。なるほどと思います。江戸時代にしても娯楽は非常に限られていたと思います。それ故にみんなはその日を楽しみにしたのだと思います。やはりたくさんものがあったり、たくさん非日常的なイベントがあることは見照を得るにはよろしくないと言うことです。

そう考えると、過去のいかなる時代よりも多くのもの、多くの知識や情報を持っている現代日本人はどれだけ霞曇っているのでしょうか。

私の場合は見照ではなく、武芸者として瞬時の判断や大局を見たときの判断基準に極力微塵の曇りを出さないために、多くのものを持ったり、日々非日常的イベントを多く持ちすぎないよう、最近は心掛けています。そういうものがなくては楽しめないようでは大変心が貧しい。私の息子も、ゲーム機がないと楽しくないのは心が貧しいからとキッパリ斬り捨てます。ものの本質に差し障るものかどうか、そういう視点で息子には色々教えています。

平成二十六年睦月十四日

不動庵 碧洲齋