不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

時に縛られる

私が最近密かに見直しているのが「不定時法」。つまり季節によって変化する時刻のこと。江戸時代に市民の時間の目安として使われていました。

簡単に言うと日の出と日没があり、その真ん中が正午。それを昼夜等しく6つに分けたのが不定時法。

つまり、夏は夜が短く、冬は夜が長くなるので、夏の6つは間隔が長く、冬の6つは逆に間隔が短くなります。

初めて聞くと不便に思うかも知れませんが、最近になってにわかに気を引くシステムです。

何と言っても自然なので体のバイオリズムにマッチしている。

夏は既に日が昇って暑くなっている時間帯に出勤しなくて済みます。

冬はわざわざ気温が最低になっている時間帯に出勤することもありません。

そう考えると私たちのスケジュールは時計ごときに支配されていると言っていいのかも知れません(苦笑)。

確か禅宗の僧堂でも夏と冬では毎日のスケジュールを変えるそうです。

それならば冬の寒い中でざわざわ朝早くから起き出して勉強なり坐禅なりをやるよりは冬は少し時間をずらして遅くする代わりに、夏はその分早くするなど、今少し自然に合わせる知恵を持ってもよいのではないかと思った次第です。

元々日本には衣更えという習慣があるくらいですから、不定時法ができないはずはないと思います。世界にはサマータイムなるシステムを採用している国や地域があります。あれは時間そのものを引き戻すので、確かに生理的にやや不快感を感じますが、不定時法はたぶん体にはとても快適だと思います。

江戸時代の暦は閏月が幾つかあったり不便と思われがちですが、月の満ち欠けで動くというのも、カレンダーがない人には便利だったのかも知れません。妊娠して出産するまでの十月十日というのも現在の暦法ではなく、1ヶ月を28日とした昔の暦法での数え方です。

そう考えると、現代人の生活というのは自由で楽なように見えても、科学文明に随分縛られた、奴隷のようなものなのかも知れません。時計やカレンダーに併せて人が生活する。所有している車やパソコン、冷暖房器具の制限に縛られて生活している、そんな感じではないでしょうか。

寒いのに暖房を付けずに厚着をすると、我慢をしている、とか、文明の利器を使わぬ愚か者みたいに見られがちですが、間違いなく言えるのは文明の利器に縛られない生き方であると言うことです。私は最近、夜、自室ではほとんど暖房を使いません。あまり寒く感じないというのもあります。節約するとか言う視点ではないですね。

自然に溶け込ませた生活は、今でこそ不便だと感じますが、トータル的な視点、自然環境的視点はもちろんのこと、精神衛生的にも現代よりも優れたことが多いのは、やはり縛られることが少なかったからではなかったかと思います。

自分の身の回りで己を縛るような文明の利器があったら、一度よく吟味してみてください。

平成二十六年睦月八日

不動庵 碧洲齋