不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

人生の意義

昨日の朝、息子となかなか意義深い話をしました。

たまたま、坐禅をすると何が得られるかと言うことになり、息子は自分が生きている意味を悟りたいという話になりました。

自分がこの世にいる意義、世の中にいなければならない理由というものです。

以前にこの世には存在する理由がないものは存在できないという話をしたのですが、それならば自分は何故、ここにいられるのかという話になったわけです。

「俺はなんでこの世に生まれてきて、何のためにいるのか、分からないんだよなぁ・・・」

そうぼやく息子に紙と鉛筆を持ってこさせました。

私は息子を点として、その両親、そしてそのまた両親、さらにその両親と、簡単な家系図を書いていきました。

息子がその頂点にいます。

「遠い遠い昔から、命がずっと続いてきて、おまえがその一番高いところにいる。生きることも難しかった時代でさえも、お前のご先祖様は必死になって命を繋いで次の人に手渡してきた。そういう人は一人ではなく、この図のように何十人、何百人、もしかしたら何千人もいて、そのたった一人が欠けてもお前は生まれることはなかった。」

幸いにも息子はその膨大な数の先祖を見て息を呑みました。

「『自分の命』なんてない、『自分まで届いた、預かっている命』だけがある。「俺の命」なんていう人は本当に自己中心的だ。ご先祖様から脈々と受け継がれてきた命だから尊い。ありがたい。お前が今、一番高いところに立っているのはその下に数え切れないほどのご先祖様がいるから。その命がけで命を運んできてくれた人たちのことを考えたら、とても命を粗末にはできない。それは他の人も同じ事だ。」

「自分が生きていることは、ご先祖様のためなんだね。」

「そうだ、お前が今ここにいると言うことが、ご先祖様たちが生きていた証なんだ。多分、自分が生きている意味は、ご先祖様たちが命がけになっただけの価値があったと、どれだけ証明するかってことなんじゃないかな。」

命が自分だけのものだと考えるのは傲慢です。

命は必ず誰かの人とつながっていて、奇跡的に自分に命が届くまで、どんな人であっても壮大なドラマが幾つもあったはずです。

だから自分の命と思っているものは、自分にまで届いた預かりものだと思うようにしています。

今月初めには先祖がたどり着いた地に息子と行ったばかりです。息子にも私が言わんとしたことが分かってくれたようです。

正直、この話をしていたら私自身、我が身を振り返って涙が出てきました。

歳を取ると涙もろくなりますな。

そう思えば自殺や殺人など、もっともっと減るのではないかと思います。

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平成二十六年睦月二十六日

不動庵 碧洲齋