不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

笑う門には福来たる

私は20代後半ぐらいまではあまり笑わない方でした。笑わないと言うよりは笑みを浮かべないというのでしょうか。

母は昔、私が生まれてから半年近くニコリともしなかったと言っていました。

それが突然ニコニコしだしたので、急いで祖母に連絡して、写真館まで行って写真を撮ったそうです。今もその写真があります。

以後もあまり笑わなかった理由は、小学校後半から中学生時代は比較的いじめられていたことが多かったからかも知れません。また、高校生になってからは狂気のように武芸や知識を習得するために時間を費やしていたからかも知れません。

今、入門した頃の自分と出会ったら、間違いなく秒殺ですな。オマエそんなに強いのか、と捨て台詞を残すと思います(笑)。青春時代はまあ、重度の中二病だったのでしょう。

社会人になってから私は精神的に崖っぷちに追い詰められたことがあります。八方ふさがりとは言ったもの、あと半歩でうつ病になるようなところでした。そういうときほど視野を広げるとか落ち着けとか、まあ世間一般に言われるような、ごく当たり前の事ができないものです。お得意の武道が全く役立ちませんでした。情けなさすぎておかしかったほどでした(笑)。でスキーのストックの如く一本よりは二本と言うことで、藁にもすがる思いで本格的に禅をやり始めたのが2007年。以後、何と言うか、ものすごく心の充実感を感じるようになりました。

禅がいいとは言いません。人によりけりです。坐っているだけで役に立たないという人もいますが、それはそれである意味真理です。私の場合はたまたま有用だったと言うだけです。

怒る、イライラする、カリカリする、キレる、色々ありますが、今まで私の心を憂鬱にさせていた最大の原因は「自意識過剰」。何に付けても自分を勘定に入れていたこと。自分を織込んで計算していたこと。今だから言えますが、あれでは心が折れたり痛めつけられても仕方がないというものです。もっとも今でも私の言動は目に余るほど自己中だと手厳しく詰るする方もいますが、私も聖者ではないのですから悪意を持っている人にすら無心になることは難しいと考えます。ともあれそういうどうしようもない奴に親切にしてくれた友人たちには、今でも心から感謝が絶えません。薄情ですが、逆の立場だったらちょっと無理かも(苦笑)。

私の禅の師が言っていました、起ったことの96パーセントぐらいは流せる程度のものだと。自分というのは車の排気ガス程度のようなもの、触れないのに有害なもの、そんな程度のものだと言うことです。多分そうだと思います。今はその割合を信じられます。そして、今そうしている自分には、心の余裕を感じます。自分を理の勘定から外すと確かによく見えてくるものがあります。

そんなことが見え始めた頃、昔何かの本で読んだことを思い出しました。

「笑う門には福来たる」「笑っているといいことがやってくる」

昔はそれこそそれらを一笑に付していましたが、確かにいつも笑みを浮かべていると、幸運というのはやってきます。心に余裕がなければ笑えないと言いますが、逆もまた然り。苦しくても強がって笑みを浮かべていると心に余裕が出てくるものです。そして余裕が出ると強さもプラスアルファの力が出ます。

笑わない人でも強い人はいますが、私が知る限りではやはり強い人はよく笑う人の方が多い。ケンシロウラオウのような表情の人が強いと思われがちですが、実際はああいう人ほど心に余裕がなく、応用が足りなかったり柔軟性がなかったりして、惜しい負け方、最後の一手に欠けたりします。そして笑う人ほどしぶとい。私の武道の師には30年近く師事していますが、怒られたことがない。しかも大抵ニコニコしている。仕事はかなり出来るし、宗家の稽古にもほとんど欠かさない。大人数の稽古の時でも各自についてよく見ている。心に余裕があるからではないかと思います。

中国の書籍にこんな言葉があります。

「怒る者は常情なり 笑うものは測るべからず。」

私の好きな諺の一つです。

つまり怒る人は普通の反応だが、笑っている人は計りがたい、ということです。腹に一計持っている、心中に秘策がある、奥の手がある、何でもいいのですが追い詰められていないという事です。確かに絶体絶命の場面で笑えたら、例え結局やられてしまっても清々しい。

最近はずっと笑みを浮かべるよう心掛けていますが、それはそれで雰囲気もよくなりますし、武骨さが隠せるもの。心の方も晴れ晴れします。よい運気がやってきそうな気もします。

欧米人はよく笑みを浮かべています。どうも日本人は通勤途中の表情が暗い気がします。もうちょっと明るく振る舞えば、社会の雰囲気も変わってくるのではないかと思った次第です。

平成二十六年睦月二十四日

不動庵 碧洲齋