不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

神韻武導

当流の今年のテーマらしいです。

当流では毎年、こんな風に宗家がテーマを揮毫するのですが、今年のは妙に気に入っています。

果たして外国人門下生はこの意味を感じ取ってくれるでしょうか。

(・・・と、毎年気にかけてますけど・笑)

「神」の概念は宗派によって違うと言われていますが、一神教、インド、中国、そして日本ではかなり異なる気がします。特に日本では八百万の神がいますが、天上はるか高いところから、それこそ便器の中にまでいます。思うに日本人の感覚としてはこの世は神に充たされている、そんな感じではないでしょうか。

「韻」は韻律、リズムを意味します。古代日本人はそれぞれの語彙には魂があると信じていました。

従って、韻律を取ることは言葉同士の調和をもたらすためであり、特に祈りを捧げるために祝詞を唱える場合に重要と見なしていました。

ご存じのように日本語の場合は5音7音が大昔から伝わってきていますが、ヘボい和歌を時々書いている私でも感心するぐらい、ジャストフィットしています。何故そうなんでしょうね。

「神韻」は神様の韻律という意味だと思いますが、語呂合わせが好きな宗家のことです、「神」に囚われず「心、真、信」とも解せよ!とか言われそうです(笑)。多分要は「しん」の音ですね。漢字ではなく音。調和の取れた韻律、人智を超えた調和とか?日本人なら分かる、周囲との調和というものを海外にも広めたいところ。「言わなくても分かるだろう」という国際基準はあります。でも日本のホスピタビリティはやはりダントツで、いわゆる日本のおもてなしがいやだったという外国人は滅多にいません。なんたって中国人や韓国人でも認めざるを得ないのですから、敢て国際基準ばかりに従うこともないのかと思います。

「武導」とはなかなか素晴らしい単語だと思いました。思えば江戸時代までの侍たちは確かに「武導」で日本をまとめてきました。戦士階級がこれほど平和に治めてた例は古今東西あまり例を見ません。そして今も日本では侍はある意味理想の人格だと考えられています。更に海外でも侍と言えば戦う人以上の人格者であることも広く知られています。

日本人であれば「武」と「軍」の色合いを何とはなしに分けています。英語ではどちらも「martial」。これだけで既に日本の精神性の高さが分かろうものです。「武力」と言えば、主権不在の戦闘力、「軍事力」は主権がある組織(主に公認政府)の戦闘力というように大体区分けされているようですが、日本では更に単に「武」と言えば侍たちが持っていた多くの資質、義、勇、信、智、礼、忠(だったかな?)をも指し示す単語です。決して戦闘能力のみを指すことはありません。これあるからこそ日本の文化が大変優れていると言うことができると、私などは思います。

そう考えると「神韻武導」の意義はよく分かってくるのではないかと思います。

今年1年、「神韻武導」に励んでみたいと思います。

画像

平成二十六年睦月十六日

不動庵 碧洲齋