不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

いつでもどこでも

私は基本、汗水流して歯を食いしばってせっせとやるのがあまり好きではありません。普通に横着者です。副次作用として随分と便利になったはずですが、近い人からも前に勤めたことがある暗黒企業の社長からもそう言われたことがありました。

ま、そんなことを言っても仕方ない。

ということで武芸でも禅でもある程度横着なので、何とかして最大限合理的で楽にできるような方法を常に模索します。

武芸では道場の中でせっせと汗をかいているだけの人は基本的にあまりうまくならないというのが私の見立てです。毎日稽古ができるような人は相当贅沢な人です。うらやましい。私の場合週に3回ですが、来年からは1回の道場通いに1回の指南があるかどうかと言う感じになります。

稽古で一番よろしくないのは、稽古相手が決まって目の前で礼をしたときが稽古の始まりだと思うこと。それは全く話にならない。道場に入ったときというのもまだまだ。基本的に起きてから寝るまで稽古だと思う人が、たぶん伸びる人だと思います。

足運び、気配、バランス、間合い、観察、呼吸、意識の持っていき方、片手間に筋力トレーニング等々、毎日日々の生活の中でやるべき事はたくさんある。これを日頃からしている人としていない人とでは天地ほどの差があると感じます。

禅では動中の工夫と言われますが、坐禅しているときが禅ではありません。実際、大悟した方の多くは坐っている時ではなく、そうでないときに悟っています。だから畳の上の稽古や坐禅はそれ以外の活動、修行ありきの結果です。

それなくして、単に畳の上で息や鼻息を荒くして汗をかいても全然ダメです。場合によっては逆効果の可能性すらあります。

そういうことなので、稽古があるときなど、武道館に入ってきて、着替えて稽古が始まるまでにその人の力量をそれとなく観察するのも私の稽古方法ですが、これは出稽古が多い当流で安全に稽古を行う為の習慣でもあります。

この観察ではがかなりの割合でその人の力量が分かります。私の独断と偏見では年に数人、「コイツはデキる」という人を見ます。これは残念ながら段位に全く比例していなさそうな気がします。うまい人は2段3段でもうまいですし、苦笑せざるを得ないような人が超高段者にもいます。

誤解を避けるために言いますが、テクニカルな技量がうまくなくても人間的に尊敬できる人は間違いなくいます。人間的に問題ありなのはこの次。

よく周りを見てない人でうまい人はいないと言って良いと思います。

観察力や注意力のない人は基本100パーセントに近い数字で下手です。

人間的にもこれらがない人ほど問題ありです。

技の完璧な動きだけをトレースして、それに満足感を求める人は、いわゆるナル様です(笑)。

大してうまくもないのに、よりによって出稽古先の古参にいちいち教えようとする、エゴの守。

言わざるを得ない、最低限のことにいちいち反発するアンチ大佐。

こういう人たちはうまい下手以前に人間関係で問題があるんでしょうね。

周りを見て見定めて、的を絞って稽古ができる人だけが武芸全体としてうまくなる素質を兼ね備えていると思います。

故にやはり日頃からのあらゆる意味でのあらゆる稽古にどれだけ意識を持てるかにかかっていると言えます。最近では私は限りなく日々の一挙手一投足に意識を向けられるようになりました。お陰様でどこの何がどのくらい問題なのか、非常によく見えるようになってきました。(エラそうなこと言ってますが、見えるようになっただけなので、うまいのとはまた別と言うことでご了承下さい!)

そういう日々の稽古、修行は別に武芸だけでなく日々の生活でもかなり応用が利きます。そしてそれらはやっていても決して損はしません。どうもそういう修行は日本人が本来持っている価値観に近いのではないかと思います。江戸時代以後、西洋の価値観に破壊されてきている本来の価値観に少しでも再度近づくような努力、日本の伝統芸能の稽古とはそんなものではないかと思います。その途中で何か素晴らしいものが発見できるものと思います。

平成二五年師走五日

不動庵 碧洲齋