時々おもしろ半分に覗きます。
数回だけ回答も書いたことがあります。
こういう場所は世の中の人の有り様を見るにはとてもよいように感じます。
結婚、離婚、生活、仕事、趣味などなど。
読んでいて思ったこと。(とてもいいお話もありますが、そうで無い場合です)
質問する人の多くは「自分を勘定に入れている。」気がします。
自分がむかつくから、自分が悲しいから、自分が嫌な気持ちだから、自分の心が狭いのでしょうか、自分が情けないのでしょうか、夫には腹が立ちます、妻には腹が立ちます、夫が家事を手伝いません、妻が家事をしません、浮気してます、非常識です、などなど。
いや、確かにそりゃまずいのもありますが、本当にまずかったらそもそもネット上に書くまでもなく。
自分を勘定に入れて物事を考えている、自分の物差しで周囲を測っている、自分の価値観で他人の言動を決めている、だから合わない、しっくりこない、気が収まらない、そういうことが起きるのだと思います。
自分が神様であったとしても、万事をうまく統べることは叶わぬかと(笑)。だって神様がカンペキなら私たちが苦労するわけもなし。全知全能ならなんで地球は今、かなりヤバいんでしょう(一神教の信者さん、くだらないツッコミお許しください)。神様は地球の自転すら変えられません。
いわんや市井の一市民がどれほどの力があるというのでしょうか。まあ、もしかしたら力ずく、理詰め、人徳で何人かを改心させることはできるかも知れませんが、その労力たるやかなり膨大になるかと想像します。
・・・そういうことに労力を割くためにこの世にやってきたのか、違うと思います。自分をするためにこの世に遣わされたのでしょう。他人をどうこうするためではないと思います。
自分にできることをベストで行う、これ以外に未来をよくする方法はありません。そしてそれだけがこの世に生まれてきた唯一の理由だと思います。今この瞬間の有り様も、過去の蓄積です。
「あ~、もっと優しくて可愛いカミさんがいたら・・・」(あくまでたとえば、です・笑)なんて思っても事態はまったく動きません。動くのは脳みその一部のパルス、しかもあまり健康的とは言えないパルス信号だけです。偉大なパルス信号も確かにありますが、そういう類のパルス信号は決して発信者を含めて周囲を幸せにはしません。つまり意味がない。
不要なパルス信号を減らして、ただひたすらすべき事をする、これが一番だと思います。
余計なパルス信号が交錯していては本来すべき事もできなくなります。
嫌なことを言われたら私も不快ですが、サッと流す。理不尽なこともサッと流す。よいこと素晴らしいことはサッと行かなくともやはり流す。自分や他人の生命に関わることとか、看過し得ぬ大きな被害が出ない限りは全部サラリと流す。留めておいてよいことなど何もありません。全部すぐに流せないこともありますが、最近は修行の成果か、かなりの確率でトイレのフラッシュ並に流せるようになりました。(笑)
禅は瞑想とか言われますが違います。そういう多くの事をサラリと流し、不要な脳内パルスを除ききった先のそのものを観ることです。たぶん。本質は想像より嫌なものだった場合もあるかも知れませんが、ともあれ本質を観る眼を養うことではないかと思います。
YAHOO知恵袋に見られる苦しみや悲しみの多くは、本来要らない脳内パルス信号の不用意な過多発信によるもののような気がします。何故そんなに多くの脳内パルスが閃くのか、生活の中で要らない情報が多いからでしょう。
例えば買い物。買うときは二つのケースしかありません。「必要だから買う」と「欲しいから買う」。要らないパルス信号は後者の方にたくさん出ています。ま、それをまったく止めるわけにはいかないのも人たる所以ですが。現代人は後者に対してより多くの思念を発していて、それこそが迷いや苦しみの根源であると思います。だから江戸時代とか昔の人は今よりももっとシンプルに生き、別の意味で楽しかったのかも知れません。
来年はより簡素な生活様式に改め、自分の生き様をよくよく拈提する。そこから何か新しい発見があると信じることにします。
平成二十五年師走二十七日
不動庵 碧洲齋