不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

スマホと携帯

現在使用している携帯は実は昨年春に帰国してしまった米国人同門後輩から譲り受けたものですが、昨日とうとうサブディスプレイが死にました(笑)。今年半ばに腕時計を紛失してしまってから時計代わりでもあったので、サブディスプレイの御臨終はチョット痛い。よく考えると腕時計ってあまり手に付けなかったので、ある意味無駄だったとは思いますが、時間がすぐ分からないのは困る。しかも今度から自家用車を使わないので時間はとても大事になると予想されます。

自家用車を所有したままだったら9割の確率でガラケに買い換えますが、車を手放す予定の今、スマホも3割ぐらいの確率であり得ると思いましたが・・・。携帯とスマホ、色々な比較をネット上で見ていて少々考えることこれあり。

何と言うか、ネット上では機能的にMAXであることが優先的に喧伝されている気がします。少しはガラケの良さも見直されてはいますが、シンプルだったりタフだったり故障しなかったり、そういう視点が少ない気がします。スマホはどう頑張っても携帯より複雑な機構です。そしてOSがある以上「フリーズ」します。ウィルスにも感染します。そしてあれば便利という程度の機能が盛りだくさん。果たして本当に必要かどうか、首をかしげざるを得ないようなアプリがたくさんあります。

私はゲームはしませんし、地図勘も悪くない。どうしてもというときは携帯でも見られますし、そうでなくとも現場で調べます。これが無駄かどうか思うのは意識の違いで、私はそういうのは全部訓練だと思っています。何かテクノロジーに依存した人は脆い。私は米国で多くの肥満体がぼんやりiPhone片手に突っ立っている様が今でもよく脳裏に浮かんできてぞっとします。自分で何かをする。そういう初歩的なことができなくなってきている人がかなり多い。個人的には電話ができてメールがで来て、幾つかのサイトが閲覧さえできればよい。会社や自宅ではパソコンを開いておりスマホよりもより便利に見ることができます。逆に急を要する程度なら携帯からでも十分返事ができます。

なくてはならないほど重要なアプリが一体どれほどあるのか。いつも疑問に思います。

正直言うと私も公共交通機関を利用するときはよく携帯でネット閲覧をしますが、1年の内何日間か携帯では不便だと思っても、それ以外はあまり不便に思いません。本当に不便なのは海外に行ったときや、長期間家を空けるときぐらい。このときはタブレットスマホが欲しいと思います。

便利なものは使いますが、便利なものに使われてはならない。これはよく息子に言います。息子は10歳ですが別段テレビゲームを欲しがったり、ポータブルゲーム機を欲しがったりしません。友人の家に行ったときは遊ぶようです。少なくとも子供のうちは可能な限り自分の手でやらせる。大人になったら今の私のようにペンで者を書くという作業そのものがほとんどなくなると思います。考えてみればそれはとても恐ろしい。火を扱う、刃物を扱う、ペンを扱う、人類が何かと言えばこれありきではないかと思うのです。来年からは自宅で書でも始めようとさえ思います。そういうレベルでありたいと思います。

スマホを見ていてホームから落ちた人がいます。そういう人は元々個体の生存維持能力に欠陥があり、本来人生を全うできない生存不適格者です。

例えばみんな駅のホームで鋭敏に気を付ける人ばかりだったら鉄道会社は大金を投じて自動ゲートなど設ける必要はありません。つまり運賃が安くなると言うことです。また、蛇足かも知れませんが心がひん曲がっている人が少なければ監視カメラも必要ないと言うことです。安全がただでなくなったのは他でもない、心に問題がある人が増えたからです。

便利だから使ってはいけないと言うことではなく、その代償が必ずあると言うこと。グーグルストリートビューはビジネスには便利ですが、これから観光旅行に行く人にとっては間違いなく興ざめです。行く前に見えても気にならない場合もあるでしょうが、私は嫌です。

話が大幅に逸れました。携帯とスマホでした。スマホは大きい。どうしても携帯よりはかなり大きくなります。これから徒歩をするとき、破損を考えると折りたたみ式の携帯の頑丈さは棄てがたい。まあスマホにも耐衝撃ケースがありますが、更に大きくなる。小ささと耐久性を取るか、大きくても利便性を取るかの違いなのですが、緊急時等のことも考えるとやはり携帯の方に分があるように感じます。

来年適当な時期に(メインディスプレイまで御臨終を迎えたらもっと早いかも知れませんが)買い換えるようになると思いますが、今のところこのように思っています。ただし、来年以後、この考えがかなり変わることも十分にありますので、その時はご容赦下さい(笑)。

平成二十五年師走十八日

不動庵 碧洲齋