不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

昨夜息子と語った事

昨夜は息子とユーチューブにあった東日本大震災のメモリアルビデオを見ました。

かなりクリアな画像であった上に亡骸の画像まであり、息子はしばらくショックを受けたかのように黙り込んでいました。

就寝前でしたが、息子と人の生死について色々話しました。

息子は大自然の前では人の想いなどに関係なく、人が産まれたり死んだりするものだと言うことでした。だから考えても仕方がない、今この瞬間だけを一生懸命に生きてさえすればいい、とういうかそれしかないという、まあ、普通の禅的な考えでしたが、親としてもし子供が先に死んだらとてもではありませんが、そんな風に思える自信がありません。

子供が先に死んだら神も仏もあったものじゃない、なんて言ってしまいそうです。

息子は「どこ探してるの?神も仏も外にはいないよ、自分の中にいるんだから」と言いました。辛かったら辛いことそのものが神様とか仏様で、悲しかったら悲しいことそのものがやはり神様とか仏様なのだそうです。

子供の頃からそんなこと分からなくてもいいのだ、と思いましたが、いつも自分で思っていることを客観的に言われると、我ながら、「ああそうか」と思います。

人は別に望んで生まれてきたわけではありませんし、同じように望んで死ぬわけでもありません。自分の意志とは無関係にこの世界に現れて、そして消えていきます。この理不尽さをどう観たらいいのか、息子と考えました。

「自分という物差しを外す」私はこれではないかと思っています。無垢の子供が津波に呑まれて死んでしまいながら、余命長くもない老人が生き残ってしまった。これを理不尽と観てしまうのは自分や多くの人の物差しによるものです。想ったところでその事態がどうかなるわけではありません。理不尽とか想うのは人の物差しです。

辛いことでもありますし、悲しいことでもありますが、そういう自分の物差しを外して直接触れる事ができた人が、もしかしたら悟りを得た人なのかも知れません。師の話しを総合するとそんな気がします。それができたからなんだと言われたらそれまでです。それを知ってどうなるものでもないとは思うのですが・・・。

結局、私と息子は明日、起きることなく死んでしまっても納得がいくぐらいちゃんとその日その時を一生懸命に生きることが、いつ死んでも後悔したり悲しんだりしない一番良い方法ではないかと言うことになりました。

そういえば先日、医者の待合室でモーニング娘。のリーダー道重さんも「その時その時を後悔しないように一生懸命やり通す」とか言っていました。あんなに若いのに達観しているなと思いました。周囲でやれAKBはどうだのモー娘はどうだのとケチを付けている人たちはたぶん、一生懸命に生きていない類ではないかと思います。私も時折、著しく品位の悪い国や人に対してチクチク呟いてしまいますから、同類なのでしょう。浮き沈みの激しい、文字通り生き馬の目をくりぬくような芸能界で必死で生きている若い人たちをどれだけ計れるか、それは自分の生き様に比例しているように思います。

平成二十五年師走十八日

不動庵 碧洲齋