不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

不自由という名の教育

先日、9年ほど使っていた自動食器洗い機がとうとう寿命になりました。

我が家では基本、台所の一切合切の洗い物や掃除は私がするので、この食洗機の存在はテレビ以上に貴重なものでした。(私はほとんどテレビを見ないので)

これがないと家事に費やす時間が1日で更に1時間近く増えてしまいます。しかし妻より「否」と沙汰があり、日頃から平和と調和を愛して、滅多に口論をしない私もさすがに激論をしましたが、しているそばから実は「まあいいか」という考えがもたげてきました。言葉とは恐ろしい。一旦口火を切るとどうでもよくなったことでも勢い余って愚かなことを口にしてしまう。志を持つ者はそういう愚かなことで気高さを失いたくないところです。

手洗いになってから原則各自で食器を洗うようになり、私がやらねばならないのは調理器具と自分の分と台所、つまり自分の食器以外はほとんど増えませんでした。

現実問題としては夕食後は時間があるので私が全部洗いますが、汚れたものを洗うという行為はとても重要ではないかと思います。

死んだ母は昔、ダスキンに勤めていましたが、そこの創業者鈴木清一氏はダスキン創設時に「株式会社ぞうきん」という社名にしたらどうかという提案したらしいのですが、社員の反対によりダスキンになったとのこと。鈴木氏は「自分が汚れた分だけ人が綺麗になる『ぞうきん』で何が悪いのか」と言ったとのことです。この話は母からよく聞かされました。この鈴木さんは大企業の社長さんだったにもかかわらず、早朝によく他人の家の前や庭を勝手に掃除して「ありがとうございます」と言っていたそうです。

禅の師匠が昔、建長寺で修行していたとき、よく先輩雲水から肥だめに蹴落とされて相撲をさせられたと言っていました。何故そうさせたのかと言えば、それは般若心経にある文言「不垢不浄」に倣ったもので、この世にはきれいなものも汚いものもない、という事を証明せよ、というものだったそうです。(でもこれってパワハラですよね?)肥だめ相撲自体は大したことがなくとも、上がった後は数日間は臭さが取れなかったので、そちらの方が大変だったそうです。

まあ、そんなことを思い浮かべながら台所の作業をすればそれもまた立派な修行になります。息子にしても妻にしても夕食後の洗い物を私がやれば「ありがとう」「助かった」と自然に口から出ます。それは自分で洗うことの大変さが分かるからです。適当に洗えば汚い食器で自分が食べる、因果応報。心を込めて洗えば自分に感謝、洗ってくれた人の苦労が分かるもの。こういう希少で贅沢とも言える教育の機会をたかが数万円の機械如きにさせていたのかと思うと、己の教育心の浅はかさを思い知った次第。

幸い息子は率先して食器を洗いますし、食べた後きれいにするという事に更に意識を高めたようです。

これも師匠が言っていましたが、禅の僧堂ではおよそ合理性の欠いた労働が多くあります。しかし合理的にすると修行の意義がなくなってしまうからです。これは多分、上記のような意味もあるのでしょう。もちろん、禅僧は動中の工夫をするためにわざわざ忙しくしているためと言うこともあります。やることを増やして考えさせない。クタクタにさせて頭を働かせない、そういう意味もあるそうです。頭でなく心で考えたところに禅の深い境地がある・・・と一在家は思ったりします(笑)。

そう考えると便利になって考えることが増えた現代人は確かに、ロクでもないことを考える人が増えてきたと言えます。どこまで便利がいいのかは分かりかねますが、その戒めを忘れることが良くないことは間違いありません。

例えばスマホに代表されるように、果たしてそれらの機能は生活する上で必要不可欠なものなのかどうか、代替の利かない、大きく不利益を被ってしまうものなのかどうか、そう考えると世の中に必要なものはそう多くありません。

欧州は今、不況のまっただ中ですが、一般市民はそう悲観的ではない人が多いように見受けます。(欧州から多くの門下生が稽古のために来日するため、直接話が聞けます)これは多分、彼らは食洗機がない不便さよりも無い場合の楽しみ方をよく知っているからで、この辺り、日本人が忘却して久しい感覚ではないでしょうか。ちょっとの不自由を愉しむところに人間としてあるべき奥義があるような、そんな気がします。

画像

自分の食器を洗っている息子

平成二十五年霜月六日

不動庵 碧洲齋