不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

いのちについて想ったこと

最近の息子のキーワードは「エネルギー保存の法則」。一体どこからそんなことを聞いてくるんだよ・・・。

物質があり、運動があり、どちらにしても元々あるそのものはなくならない、そんなところです。意外にもまだ完全に証明されていない法則のようですが、まあまあ、間違いはなかろうといった案配のようです。

それについて息子は最近、しつこく確認を求めたり、色々尋ねてきます。たぶん、先日買ってやった、マンガ相対性理論からじゃないでしょうか。もう分からなくなってきました。正直言うと私に聞くのは止めて欲しい(笑)。

数日前の食卓での話し。

「それならさあ・・・命も死んだり生きたりしてるけど、やっぱりなくならないって事かなぁ。そうなるよね?」

息子は突然、いきなりそういうことをよく言います。

手元にあった硬貨で説明しようとすると、

「ああ、知ってる知ってる。生きるとか死ぬというのはコインの表と裏で、コインその物じゃないって事。命はそのコインと同じなんだよね。」

と先走られました。ちきしょう(笑)。

生きていても死んでいても命はなくならない。少々真剣に考えてしまいました。

息子はその問いの重大さに気付いたのか気付かなかったのか、夕食を食べ始めました。

「命」の漢字が輸入される前から日本人は「いのち」と言っていました。

語源は様々ですが、一番納得なのは「生きる」「息」などの「い」に「血」などに使われる「ち」。生命の根源の霊力を表わすことば。だから「いのち」は「生きる霊力の根源」そんな意味なのでしょう。「力(ちから」も「霊力の根源からくるもの」だったようです。遥か太古の大和言葉の名残です。

霊力も力です。パワーでありエネルギーです。生命エネルギーは死ぬんでしょうか。(結構バカな質問をしているのかも知れない)浮き世の私たちには片面しか見えません。生きていればあると思い、死んでしまったらないと思ってしまいます。しかしたぶん、「いのち」ってそういうものじゃないんでしょうね。完全でないという自覚だけはしっかりとある我々人間です(笑)。片方の象限しか見られないというのも納得できませんか?

うまく言えません。「死んで」しまっていたら、今の私たちは何なんでしょう?昔の先祖が生きていた証です。生きていたときに子孫を残して、その後に死んだ。それは分かっています。しかし今現代に生きている私たちにとってはそういう視点ではなく「明らかに自分の先祖が存在している(した、ではない)」という事実だけが重要です。先祖はいます、今もいます。人によっては守護霊だったり、地縛霊とか浮遊霊とか、仏になったとか神に召されたとか色々表現があると思いますが、それはあまり重要ではありません。重要なのはその先祖がいたという真理を魂で感じられているのかどうかと言う事ではないかと思うのです。

先祖の話だけではありません。先祖から私に至るまで、いのちを燃やす為にたくさんの命を食べてきたと思います。これは良いとか悪いとかではありません。(食べ過ぎ、食べなさ過ぎはあると思いますが)そういういのちも先祖を通じて私に今なお煌々と生きています・・・たぶん。自分が何か大きなうねりの一つに浮いている、命の流れの中に在る、そんな感じではないかと思います。

そういうことを理解していようがいまいが、それはそれ、白隠禅師和讃にも「衆生本来仏なり 水と氷の如くにて」です。この大きなうねりが流れることその物には関係ないのだと思います。ただ、まあ分からずにかりそめでしかないゴリゴリエゴイズムを行使し続けてきた結果が今の地球です。宇宙全体で言うと別に地球が滅んでも大したことないのだと思います。宇宙は気付かないと思います。私たちがこのいのちの在り方に気付くことが宇宙が気付いてくれることではないかと思います。

なんか新興宗教の教祖っぽくなってきた(笑)。単なる私の勝手な妄想です。禅仏教がベースなだけです。別に新たに宗教を起こそうなんて思ってません。本当です。

今朝、歩いて会社に行きました。

花壇のある通りを歩いていたら、昆虫の幼虫が道路に転がっていました。

無心で拾い上げて花壇に戻してやりました。

禅的には振り返ってはいけないところですが、その時私に尊いとかそういう感覚があったのかどうか。

そういう高級な感情ではなく、無心でそういうことをする。たぶん、大昔の人はそうできていたのだと思います。

書いていて意味が分からなくなりました。やめます。

平成二十五年霜月二十六日