不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

動かない 動かない

今朝方、息子が学校で読む本がないと騒いでいたので、自分の本棚のちょっと探してみました。今はコアで濃厚な本が大半なのですが、簡単そうな本を見繕って見せました。

一つはギリシャの名言、一つはエジプトの名言、最後は佐久間艇長の遺言。

名言シリーズは少々難解だったようです。

佐久間艇長はご存じでしょうか?

戦前の人ならご存じだと思いますが、wikiに詳しく載っているのでリンクを貼ります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E5%8B%89

この方を知ったのは小学生の時だったでしょうか。その時は潜水艦なんかに乗るものじゃないなとつくづく思ったものでした。私は米国で大戦時-終戦後の通常推進潜水艦2隻と捕獲したUボート、そして世界初の原子力潜水艦ノーチラス号に乗ったことがあります。ギリギリノーチラス号は居住性がマシだと言う程度で、それ以外は外壁から感じる不気味な水圧で気分が悪くなりました。あんなものには乗るものじゃありません。

まず助からなさそうな最悪の事態に際して本人以下14名の乗組員は驚くことに皆、その場で絶命していました。欧州イタリアでは同じような事故があったとき、乗組員たちは出口に向かって群がり、折り重なり乱闘状態で絶命し、その状態で発見されました。この軍人の鏡のような行為に世界中で賞賛の声があったそうです。

息子にこの話をかいつまんで教えたところ、しばらく声が出ませんでしたが、息子としてはどうにかして脱出して生き延びることができなかったのかと感じたようです。

私が世界一尊敬している歴史上の人物は東郷平八郎元帥です。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E9%83%B7%E5%B9%B3%E5%85%AB%E9%83%8E

東郷元帥には色々な逸話がありますが、私が好きなのはこれ。

日本海海戦中、東郷元帥は旗艦三笠の露天艦橋に立っていました。当時、東郷元帥が指揮していた場所は船を運用する艦橋の上、雨ざらし状態の場所です。砲弾が降ってきたら擦っても即死というような場所に立って指揮していました。砲弾が海に落ちても巨大な水しぶきが降りかかります。三笠は旗艦として特に狙われたため、被弾も多く、至近弾も非常に多かったと言われています。

昼前から東郷元帥は露天艦橋に立ち、艦隊戦が終わる夕刻まで立ち尽くしていたのですが、東郷元帥がようやく退室するとき、彼の足下は至近弾で被った海水の為にずぶ濡れでしたが、東郷元帥がいた靴の裏の甲板だけ乾いていました。つまり艦隊戦が始まってから微動だにしなかったと言うことです。これは伝説ではなく、数名の将校が目撃しています。

佐久間艇長も東郷元帥も不動だったのでしょうか?

そんなことはありません。どちらも全宇宙が大激震するぐらい、思い悩み苦しみ様々な思いが駆け巡ったのだと思います。宇宙いっぱいいっぱいに思いが巡り尽しました。

たぶんそれが沢庵禅師が言っていた「不動の動」ではないかと思います。艱難や国難に当って鈍感ではなく、さりとて右往左往するでもなく、半々でもなく、どれでもない不動の動です。めいいっぱい動き尽して動かない様、歴史上の偉人たちはきっとそうしたのだと思います。人によってはそれがエネルギッシュな不動に見えるのかも知れません。私が帰依する不動明王も不動の名がありながら、その姿は実に躍動的です。

私たちは既に生まれてからは何一つ固定できない世界に放り出されてかき回されています。それを自分の都合で止めたり早めたりしようと試みるのは、例えできたとしてもストレスは半端ないものだと想像します。流されるままは嫌だと言いますが、流されているそのことにすら、私たちは集中できず、流されながら何かを流し、その思いもいずこかに流れています。そういうブレまくった諸々のことを一つのことに収斂して、一つの流れとしてその流れに成り尽す。

彼らの生き様は私が行じている禅の修行に非常に相通じるものを感じます。

時間があるときに息子に佐久間艇長の遺書や話しを読み聞かせ、自分を勘定に入れない、大局的なものの見方、勇気や正義に怯まない人間の素晴らしさを示したいと思います。

平成二十五年霜月二十五日

不動庵 碧洲齋