不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

靖国神社に行った

毎年、特に時期は決めずに何度かは靖国神社に行くことにしています。

先日の金曜日、自衛隊音楽祭の前に参拝してきました。

本殿にて参拝した後、しばらく参拝者を眺めています。

やはり他の神社とは違うなと思うのは、老若男女とも祈る時間が長い。みんな真摯に祈っています。そして特筆すべきは金髪のお兄ちゃんも、化粧の濃いお姉ちゃんも、本当に戦争のこと知っているのか?と思うような人までが真摯に祈っていることが多いことです。

彼らは戦争についてはそんなに知っているとは思えないのですが、今、日本がある意味危機的な立場にあることは肌で感じているようです。

私が靖国神社に行くときは、サイパン増援部隊輸送の為、輸送船に乗り組んでいた母方の祖父を弔う為ですが、一度戦争で死んだ人に「我が国をお守ください」などとむごいお願いをするのはいかがなものかと思います。戦死した人からしてみたら「え~っ!もう十分に頑張ったじゃん!」と言われそうです。今、私たちが日本を何とかして未来に繋いでいかねばなりません。死んだ人に頼ってもダメです。

先の大戦を振り返ってやれ陸軍はダメだった、海軍は何をしていたなどと言ったり、その逆、帝国陸軍は世界最強だった、とか、海軍は作戦が悪かったとか、色々評されていますが、基本負けたけど強かった軍隊なるものはありません。たまたま勝った弱い軍隊はあります。戦争ではたまたま勝ってしまうことはあっても、たまたま負けることはまずあり得ないというのが、歴史が好きな私の持論です。

これはスケールダウンして武芸の格闘においても同じ事が言えます。ボクシングで言うならラッキーパンチというヤツです。

大体既に負けて過去のものになってしまった軍隊にあれこれ言ってどれだけメリットがあるものか。10代、20代の頃はよく論議しましたが、今はあまり意義を感じません。

世界でたったの2.3しかない反日国家に目くじらを立てて感情的になる連中には同情すら覚えます。理性的に指摘したり反論するのは一向にとは言いませんが、構いません。やはり何と言うか、日本にケチを付ける国家は一癖二癖、世界中から見てもやや問題が多いと言わねばなりません。

戦争は国家にとって大仕事であり、大決断を要する事業です。

英邁とはいかずとも、暗愚ではない普通の首長であっても放り出したくなるようなものです。明治天皇は日清日露の時は最後まで反対したと言われています。そりゃそうです。清は日本の倍以上の戦力、ロシアに至っては10倍以上の戦力差です。誇り高かろうが何だろうが、彼我の差をちゃんと計れないような愚かな日本人ではありません。やりたくもない、やむを得ぬ戦いに向かわざるを得ませんでした。普通、自分より強い敵とがっぷり四つに戦おうなどと考えるのは理性的な国家ではありませんが、多くの国民がそうせざるを得ないような危機感を感じていたと言うことです。

あいにくと大東亜戦争はいささか精彩を欠いたと言わねばなりません。負けた、それが全てです。後になって敗戦の理由をあれこれ探して箔を付けても後の祭り。私の祖父もそれの犠牲になってしまいました。おかげで祖母は非常に貧乏暮らしを強いられ、母や叔父叔母も大変苦労しました。

死んだ祖父の気持ちを考えます。

鬼畜米英!子々孫々まで奴らを恨んでやる!でしょうか?

違う違う。絶対に違います。今は子を持つ身なのでよく分かります。

子供たちと日本の未来が素晴らしいものであれば何でもよい。

今や世界は狭く、日本だけでは素晴らしくなれない。世界は地球という一つの星に集約されています。よその国と仲違いして、平和にはなれません。

そもそも厳密に平和とは、戦争がないだけではなく、戦争の準備もしなくてよい状態ですから、ある意味それは理想に過ぎないのかも知れません。

素晴らしい世の中とは、取りあえず不幸な人がなるべく少なくなること。

愛国心大いに結構ですが、どうも猛り狂っているだけで、傍から見ても幸せそうに見えない人がリアルでもネット上でもよく見かけます。靖国神社にもいました。

私の場合は夫を米国に殺された祖母がガンの病床で英語の勉強をすると思い立ってから、母を経て私に至り、今は世界中の国々に友人を持つようになりました。米国にもたくさん友人がいます。ここまで3代かかりました。間違いなく言えます。死んだ祖父はこれを喜んでいます。

息子はもっと国際的になると思います。我が家系で初めて、宇宙から地球を見るのではないかと思っています。宇宙から国境が見えないという衝撃は、私たちの既成観念を打ち破るには十分です。

インターネットという、恐るべき便利さを持つ道具があり、IT技術という、半世紀前では思いも寄らなかった魔法の道具もあります。世界中どこの人とでも通じ合うことができます。これを闘争の道具にするのか、コミュニケーションを図る道具にするのか、まあ人それぞれですが、私は「和の国」の住民として決して恥じない行動をしているつもりです。和の民だと思っているのに憎しみ続けたり、争い続けるのは日本国民としての品格に関わる気がします。もちろん、愛が全てだとか言う理想主義者ではありませんので、時には武器を手にすることも必要だと思い、その時は後れを取らないつもりです。しかし初めから武器ありきの姿勢ではありません。ある意味これが武芸者と軍人の違いかと思います。そういう意味では今の自衛官は武芸者に近いのでしょうか。そうだとしたらとても嬉しく思います。

万国から愛される国家と言うのは人に例えてもなかなか難しいと思うので、それはできないとしても、反感を持つ国家にどのように対処するかでその国の品格がでてくるのではないかと思います。そして我が国は民主主義です。国民ひとりひとりにそれが求められています。無論、今上陛下のご威光ももありますが、そういうものを元から頼りにしていてよいはずがありません。

この辺り、日本人は近年にない危機的状況に苦しみ悩むのでしょうが、どんな結果であれ、他国から賞賛を得られるような品格のある立派な行動であって欲しいと思います。

平成二十五年霜月二十日

不動庵 碧洲齋