不動庵 碧眼録

武芸と禅を中心に日々想うままに徒然と綴っております。

現実とデジタル

昨夜は久しぶりに息子とオセロをしました。

我が家ではデジタル系のゲーム機がないので、遊ぶ場合は自分で何かを作ったり、実際に何か作業をしないと成立しない仕組みになっています。

テレビゲームの全てが悪いわけではありませんが、逆に言えばテレビゲームなどなくとも日常生活には困らず、友だちと遊べなくなるわけでもなし。

息子は今、小学校4年生ですが、幸い今に至るまでゲーム機がないからと言って仲間外れにされることはありませんでした。

息子も特にゲーム機を欲しがるでもなく、誕生日やクリスマスに欲しがるものはもっと別のものです。

そういうこともあって、息子はリアルさに欠けるデジタルライフにはある意味警戒心すら持っていますが、これは将来、きっと彼の人生を際立たせ、より豊かなものにすると思っています。

こういう世の中です。全てがデジタル的なやり取りで済ませることが叶う場合が多いものですが、何でもかんでも便利の一言で済ませてよいものかどうか、私は多分に疑問に感じます。人間が便利さというものに対してブレーキが利かなくなると、使い物にならなくなるような生き物に堕ちてしまいそうな気がします。

息子はずしりと重い刀を持ったことがあります。甲冑然り。私が稽古をしている様も見ています。時々本人も稽古します。殴ったら/殴られたら、ということ感覚を通じて理解しています。

これが格闘ゲームだとそうはいきません。高校時代から格闘技ヲタクを散見していますが、まあそんな感じです。指先だけの感覚というのはほとんど経験がないのと同じです。

たかがオセロでも同じ事。石を手にした感覚、それを盤面に置く感覚。そしてその音。そういうものがゲームをする上で緊張感やリアリティを生み出します。今時はこの程度はネット上にいくらでもありますが、我が家では敢て使いません。

この感覚の重要性が分かるか分からないかという点が、ある意味便利を喰うか、便利に喰われるかの分水嶺ではないかと思います。スマホの画面に食らいついている方はもちろん言うまでもなく後者ですね。

この感覚は魔物です。自覚症状はないかも知れません。徐々に精神を蝕んでいきます。デジタルデバイスが手元にないとき、自分がどんな気持ちになるか、観察してみるといいかもしれません。不安になったり落ち着かなかったらアウトです。

男の子が現実の武器に興味を示さなかったら、種族のオスという意味で退化していると思います。戦闘兵器や大小の火器類に興味を示さない男はたぶんメス化しています。特に日本では武器を手にすることはもちろんのこと、目にする機会も少ないのが現実です。男だったら鋭利なナイフや冷たくて重い銃などに触れることはとてもよい機会だと思います。もちろん、自衛隊の広報センターなどに行けば、戦闘車両に直接触れることができます。そういうことを識らずして平和立国はありません。ヌクヌク育てられた子供たちが世界における現実に対処できるとは思えません。

鉄の冷たく重い感覚が戦争を忌み嫌わせ、理性的な方法でその目的に向かって進んでいくものです。一部に見られる愚かな扇情的愛国活動や排他的行為は全くのところ愛国活動の正反対をいくものです。もちろん私は戦争を否定しません。攻めてきたらやり返す、攻めてきそうならやられる前にやるのもありだと思っています。しかしそれはあくまで平和の為の努力を惜しまなかった行為、他の道を模索して見つからなかった場合のみです。昨今の一部の反日国家は自分たちで首を絞めているように見えます。自業自得でしょう。羊よりおとなしい日本人を怒らせたらどうなるか、一度思い知った方がいいのかも知れません。

ネット上ではどれほど交流があったとしても、リアルの交流がなくてはダメです。私はフェイスブックに270人を超える友人がいますが、7割は外国人で多くは数年に一度は会っています。こういうリアルさがない感覚は決して安易に受け入れてはならないと思います。

リアルさを必要としない情報、リアルさがあった方がいい情報、そういうものを客観的に判別できる理性と良識を、大人は子供のために持っていたいところです。

米軍基地行事の銃体験

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131112-00000026-kana-l14

平成二十五年霜月十二日

不動庵 碧洲齋